詩篇研究のはじめ

4年前の1994年夏季バイブルキャンプの後であった。妻の広美の信仰が成長するために、なにをすべきかを話しあっていた。結婚した同じ年に受洗してから、子育てに追われる毎日を過ごしていた。第5子、和也が母の胎に与えられたころである。

「そうだ、この私たちに与えられた子供たちに祈ることの大切さを教えよう。寇ママも寇ママのお母さんも、こどもたちのために熱心に祈ってくれたとキャンプで証ししていたじゃないか。

そのためには、祈りの模範となる詩篇を学ぼう。福音総合研究所の「自分でやる聖書研究:詩篇」で学んだ方法で、週に1篇ずつ、ゆっくり進めていこう。」

詩篇の祈りの実感

同じ年の春に、現在、住んでいる貸家・フォレストグリーンに引っ越してきたとき(1)、「主の命令を家の門柱と門に書き記しなさい。申命記6:9」というみことばを覚えて、4人のこどもひとりひとりに聖句を選んで、台紙に印刷し、それぞれの写真とともにリビングに飾って、こどもたちに暗唱させていた。長女みわざには、詩篇19篇の3段落めを選んだ。

「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」19:12-14

みわざはいつも「傲慢だ」と、しかられていたからである。就寝前の祈りの時に、その暗唱をさせてびっくりした。5歳の娘が、自分の祈りとして祈っているのを聞くと、こどもの祈りであるのに、実に力ある祈りであり、私たち親の心に、そのみことばが深くしみいるのである。この経験は、詩篇研究をはじめる、もう一つのきっかけとなっていた。

詩篇礼拝をはじめたころの状況

そのころは、会社が創設以来はじめての試練を与えられていたころでもある。その年の1月に本を出版し(2)、さあこれからだと思っていたところ、アメリカの取引先が開発を中止すると発表したり、自社製品フォローアップ!は思うように売れず、マッキントッシュにもかげりが見え始め、会社経営のすべてが、それまでのようにうまくいかず、経済的にも苦しくなり、将来の方向性も決められなくなっていった。

引っ越しして少々教会から遠くなったために、教会員との交わりの機会も減ってきていた(3)。毎週の礼拝や福音総合研究所での学びだけでは、乗り越えられなくなっていた。教会の執事に任命されたのもこのころで(4)、実際のところ、自信を無くし当惑していたころであった。

お客様とのミーティングに向かうときに、夫婦で、文字通り、涙をながして哀れみを乞う祈りをしたことは何度もあった。しかし、そのたびに、詩篇によって教えられ、戒められ、励まされた

主は、このような時期に、詩篇の学びを始めてくださり(5)、家庭礼拝を特別に祝福してくださった。みことばのみにより頼み、自分自身で主イエス・キリストと交わりを持つことを望んでおられたのである。

試行錯誤の研究方法

詩篇研究をはじめてはみたものの、結婚以来、妊娠・出産・授乳を繰り返してきた広美は、夫・和彦から耳で聞いて学んできた聖書であったため、自分で詩篇をかみくだいて、子供たちに教えるほどの知識も理解もなかった。いつしか、和彦が毎回リードするようになっていく。

家の中にある詩篇に関する資料を集め、いろいろ使ってみた。週報、祈祷会の詩篇説教テープ、コンコルダンス、日本語の註解書、英語の註解書、オンラインバイブル(6)…。音楽CDの曲の中から詩篇を選んで聞いてみたりもした。

両親に贈呈するために購入してあった A4版の大型聖書が、手つかずで書棚にあった。渡してみたものの、読まれていなかったので、引き取ってきていた。毎週、これをコピーして、なるべく一つの詩篇が1ページに収まるように、糊とハサミでレイアウトして、書き込み用に使うことにした。

これなら小さな子供でも、文字探しという方法で、同じ家庭礼拝に参加することができた。色鉛筆を持たせて、「神」とか「待ち望む」など、繰り返しでてくる言葉に注意しながら観察する方法である。この作業で明らかになったキーワードを、日本語のコンコルダンスやオンラインバイブルで探し、見つけた聖句を書き写させた。

また家庭礼拝の中で、その日に研究すべき課題が出され、礼拝が終わった後、1時間程度の時間で、それぞれに研究をさせた。これが予習となって、翌日の家庭礼拝で研究発表や質問に答えながら、1週間、同じ詩篇を味わっていくのである。

自分たちの研究スタイルもできあがってきた。「詩篇の宝探しマップ」を作って、我が家の研究のアプローチを確認した。また、ホワイトボードに概略を書いて、研究成果を毎日書き加えていくので、そのまま、その週の詩篇についての研究記録となっている。このホワイトボードは、コピーができるのでとても重宝している(7)。

並行法を見つけるためにヘブル語詩の研究書を参考にしたり、日本語、英語さまざまな注解書を参考にするものの、なかなか適したものが見つからなかったが、「ひつじ本」と呼んでいるボイス・モンゴメリの注解書をお茶の水で見つけてからは、これをよく使うようになった(8)。これらの注解書を参考にしながら、詩篇の概略についての各自の説、つまり、契也説、みわざ説、みくに説、パパ説、ママ説を発表して、それに各注解者の説を合わせて吟味しながら、週の終わりには、概略についての「ファミリー説」もできあがってくる

我が家の「伝統」

詩篇の4編を毎日就寝前に暗唱し、ひとりひとりが祈り、詩篇抄集の4Bを賛美して休むようになっていった。詩篇に親しんでいくなかで、我が家の「伝統」となったことは、多くあるが、これがその初めである

「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。」4:3-5

「義のいけにえをささげまつれ、主をば信じてより頼めよ。我、安らかに伏し眠らん、主のみ我をば守りたもう」 詩篇抄集4B:1,5

「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」4:8

子供が懲らしめを受けるときの祈りとして、懲らしめ前には、

「…契約の愛をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。」141:5

懲らしめの後には、

「私の主、神よ。まことに、私の目はあなたに向いています。私はあなたに身を避けます。私を放り出さないでください。」141:8

昼の食事の賛美は、

すべての眼は、汝を待ち望む
主は時にかない、糧与えたもう
詩篇抄集145A:8

夕の食事の賛美は

汝、御手を開き、生ける者皆に
彼らの願いを、飽かしめたまわん
詩篇抄集145A:9

みことば家庭料理

このように、主のみことばを日々のパンとして、家庭料理のように自分たちなりに料理し、食事と同じように、大きいものも小さいものも同じみことばの糧を味わい生きていくときに、成長はゆっくりとしたもではあるが、家庭の一致が形成されていく祝福を見ることができた。

日曜日の礼拝には、兄弟姉妹とともに主の御前に集まり、シェフである牧師の料理したみことばをいただき、聖餐にあずかる。礼拝の説教で、詩篇の引用があると、家族中で顔を見合わせる。その週に学んだ詩篇の学びの内容が、説教につながっていることもしばしばである。

■通読会の開催

半年ほど前から、家族で通読するようになった。それまでは、ただ、それぞれのペースで、通読を進めるだけで、味わい方すらも知らないこどもたちには、特につらかったようである。「今日の箇所は読んだの?」といつもしかられながら読んでいては、内容を理解するどころではなかった。

そんなある日、インターネットで、ちょっと変わった通読表に出会った。今まで見たことのある通読表は、旧約聖書も新約聖書も初めから順番にすすめていくものであったが、Michael Coley氏の「52 Week Bible Reading Plan」通読表は、7つに分類されていた(9)。日曜日はモーセ五書、月曜日は歴史書、火曜日は詩篇、水曜日は詩歌(ヨブ記・箴言・伝道者・雅歌)、木曜日は預言書、金曜日は福音書、土曜日は手紙である。それぞれが1年間で読み終わるように割り当てられている。うまく分類したものだ。これなら週に7種類の味を味わえる。長い箇所もあれば短い箇所もある。週の中でやりくりして時間調整も可能だ。

朝食が終わるとリビングに集まり、今日の箇所の通読をはじめる。20分から40分くらいかかる。キーワードや疑問、概略をノートに書きながら読んでいく。終わってから、それぞれが章毎に発表するという方法で進めている。

この通読会も祝福されている。ひとりで読むよりも、みことばを分かち合える分、喜びも大きい。

■教会のビジョンとの一致

そして、カルヴァンの詩篇説教集を手に入れることができた(10)。掲載されている分は少量なのではあるが、最高の励ましを与えてくれた。450年前のジュネーブで語られた、同じ詩篇についての、キリストへの熱い愛にあふれるカルヴァン説教を聞いて、キリストの教会のため、キリストの公堂の教会一致のために生きるとはどういうことかをはじめて実感することができた。

多くの神学の中で、卓越した一つの神学としてカルヴァンの神学を学んでみても意味はない。彼の信仰と神学を学ぶことを通じて、わたしたちが真の意味で聖書を学び、主イエス・キリストとその福音を知り、この福音に与った者としてキリストの体なる教会形成に身をもって仕えることこそ肝要な一点である。ペンと口先ですばらしいキリスト論を説くことができても、身をもって「キリストとの交わり」を証しできなければ、すべては無益である。「キリストとの交わり」の中に堅く立つために、そして生けるキリストから生命のみことばを受けて、まことの教会形成に身を捧げるために、カルヴァンの説教は、今日も私たちに語りかけているのである。
「カルヴァンの詩篇説教集」 訳者あとがきより

我々の教会のヴィジョンのもっとも土台となるところ「キリストの心は牧会にある」ということがやっと少し自分のものとなった気がする。

「私たちにではなく、
主よ、私たちにではなく、
あなたの恵みとまことのために、
栄光を、ただあなたの御名にのみ
帰してください。」
詩篇115:1

+カンノカズヒコ 1998.10.22


(1)1994.3.1

(2)菅野和彦著「マックによるデータベースマーケティング」光栄刊1994.1.31

(3)結婚して最初の家も、次の家も、教会から歩いて帰ることができたので、礼拝の後、毎週のように交わりを持つことができた。

(4)執事任命は、1994.6.2

(5) 1994.10頃

(6)パソコン用の聖書検索ソフトウェア。英語だけではなく、ヘブル語の語句番号で検索ができる。http://www.onlinebible.org/

(7)プラス社製電子黒板「BoardFax:KISS-10」 当時12万円。http://www.plus.co.jp/

(8)James Montgomery Boice, PSALMS:An Expositional Commentary, Baker Books 1994 本の表紙がひつじの写真なので、我が家では「ひつじ本」と呼んでいる。

(9)マイケル・コーリー氏の「聖書通読表」日本語版

(10)ジャン・カルヴァン著、手島欣二郎訳 「カルヴァンの詩篇説教集」 聖恵授産所出版部、1997.3


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