キリスト教の教会で結婚式を挙げたいという希望がかない、スミス牧師に司式をしていただき、結婚生活が始まる。まだ信仰はなかった。夫はやさしく、わがままをゆるしてくれそうなので結婚したのに、疲れていて日曜日に教会に行かないと言うと、ひどく叱られびっくりした。
また、今までは何を聞いても頼りなく、歯がゆかったのが、力強い答えが返ってくるようになっていた。夫には結婚と同時に信仰が与えられていたのだ。頼りなく、もっと男らしくなって欲しいといっては喧嘩をしていたのに、変わってしまった。人を変えることができるのは、神様しかいない、本当に神様はいるのだと確信した。
夫は福音総合研究所のクラスに出て、聖書の世界観を学び、帰って来ては、うれしそうに説明してくれた。また、若い教会員や友人を毎週土曜日に家に招待しては、聖書の話をして証をしていたので、なるほどなるほどと側で聞いていた。聖書を土台にすべてを考えるとはこういうことかと、知識は増していったが、自分では説明できなかった。まさしく夫を通した信仰である。
結婚して7年がたった秋、「あなたの信仰が、どうやったらバージョンアップすると思うか。」と聞かれ、心の中では、「とんでもない。子育てで忙しいのだから。」と言っていたのだが、今のままでよいとも思えなかった。与えられた子供たちに、母として祈ることの大切さを教えようということで、祈りの模範である詩篇を学ぶことにした。1篇からスタートするのだが、うまくいかない。結局、夫がリード゙してくれることになる。
5人目の子供、和也が与えられ、また、授乳の毎日であった。和也は特に熟睡してくれず、いつもいつも泣いていた。結婚してから妊婦、授乳の繰り返しで、私の疲れもピークに達していた。私だけが大変だ。夫を責め、無言で文句を言い続けるが何も解決できるわけではない。こんな状態なので、夫との関係も悪くなる一方で、家庭には平和がなかった。いつも夫を通して神様のことを教えられていたので、直接神様と交われない。苦しい、逃げ出したい。
そんな時、福音総合研究所のマルコ福音書のクラスに出席することになった。もともとは、夫が出席していたのだが、忙しいので替わりに行けというのだ。最初は、「こんなに疲れているのに、厳しい要求をしてくる、何を言うのだ。」と、また心で文句を言った。小さな子供たちに食事をさせ、全部やるべきことをして出かけなければならない。さらに忙しくなり、疲労はつのるばかり。
しかし、マルコ福音書のクラスに出ているうちに、キリストの十字架のみわざを見せられた。こんなに無力で、ちりにすぎない者のために、主イエス・キリストは十字架にかかってくださったことをあらためて思い返し、感謝でいっぱいになった。ぶつぶつ文句を言っていた自分の姿に気がついたのである。初めて神様と直面したのだ。
エデンの園でアダムとエバが神様に反逆し、神様との平和な関係が壊され、アダムとエバの関係も、被造物との関係もだめになったが、創世のはじめから約束されている通り、私が神様との関係を正しくもてるようになり、夫との関係も正しくなり、家庭に平和が戻ってきた。自分自身を正しくさばき、善悪を区別し、神様の側に立つものに、いのちを与えてくださる。
この頃、家庭礼拝では詩篇103篇を学んでいて、103篇はルカ福音書1章のマリヤの祈りとつながっていることに気がついた。読んでみると、
主は私たちの成り立ちを知り、
私たちがちりにすぎないことを
心に留めておられる
詩篇103篇14節
卑しいはしために目を留めてくだっさった
ルカ福音書1章48節
と書かれており、この信仰こそ今の自分に足りないものであると気づかされた。
それから3年して長男契也が9歳の時、契也にも何か目標を持たせ、達成するということを体験させたいと思っていた。そして、新しい契約である山上の説教の構造を分析させ、暗記させたのである。その後、研究所で山上の説教のクラスがあると聞き、喜んで親子ふたりで出席する。
子供と一緒に御言葉の家庭料理は、家庭礼拝で味わっていたけれど、牧師が説き明かしてしてくださった御言葉もまた格別においしく、家に帰ってきてからも、その喜びを息子とふたりで話したりした。御言葉そのものを喜ぶことが、主イエス・キリストご自身を喜ぶ信仰であることも分かった。
詩篇の学びは続けられ、家族で通読会を開催しはじめたりで、聖書の色々な箇所がつながりはじめた。勝手に御言葉を読みこむのではなく、御言葉そのもので御言葉を解釈する。色々な箇所を開いて読んでいくうちに、実に緻密に書かれていることを教えられた。読めば読むほど御言葉の完璧さ、甘さを知る。
夫が出張でいない時も、子供たちと一緒に詩篇を学べるようになり、いのちのパンを自分で料理して味わっている。
家庭礼拝の充実、研究所のクラスの祝福と次々に御言葉を読む機会が増えてきた時、2階に引っ越してきた鱒渕さんが聖書を学びたいと言う。自分の言葉で聖書を説明する機会が与えられたのである。学んできたことを、正しく伝えられるか、とても緊張した。
1回に1時間か2時間説明するのだが、緊張しているので、お茶をだすのも忘れているといった状態であった。鱒渕さんは、クリスチャンは聖書を大切にするので、汚さないように、聖書を開いている時は、お茶もお菓子も口にしないと思っていたという笑い話がある。教えることは教える者の祝福になると聞いていたが、本当だった。
日曜日になると教会で、1週間味わった詩篇があまりにもおいしいので他の教会員と分かち合いたく、詩篇の話に夢中になった。これもまた、私にとっては反芻の時で、1週間の復習の時間となってしまった。
末っ子のめぐみも3歳になり、あまり泣かなくなった。家庭礼拝でもひとりで静かに座れるようになり、私も集中できるようになってきた。御言葉をもっと読みたい、知りたいという気持ちが、ますます強くなる。
明日はお客さまがいらして、我が家で食事をされるというのに、研究所で学んできたことを自分で確かめたくて、止まらなくなってしまった。そのためにその日の夕飯も遅れるし、もちろんお食事会の準備は当日となり、皆のお腹はすっかりすいてしまった。私のたましいが満ちあふれているのとは反対に。
聖書の中に何度も繰り返し書いてあるが、人が試練を通して成長することを体験した。信仰が篤いダビデでさえ、神様から試練が与えられ、主を恐れることを学んでいる。
神様は恵み深いと、詩篇の中に書いてあるが、恵みとは、神様は言ったことを必ず守り行ってくださるということを知った。
帰ってきてください。主よ。
私のたましいを助け出してください。
あなたの恵みのゆえに、
私をお救いください。
詩篇6篇4節
これは、実に慰めであり、私たちに平安を与えてくださる。私が主の道から滑りそうになった時、主が右の手で私を支え、義の道にもどしてくださったことを感謝している。
苦しみに会ったことは、
私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。
詩篇119篇71節
契約の愛をもって私たちを導いてくださる、御国の王である主の御名が、全世界でほめたたえられますように。ハレルヤ。
+ひろみママ 2000.11.03
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