御国義塾(みくにぎじゅく)とは、主イエス・キリストの有名な山上の説教の一節「神の御国とその義とを第一に求めなさい。」から命名されたカンノさんちのホームスクールの呼び名。
カンノファミリーは、ホームスクール歴7年、中学2年から、幼稚園まで(2001年現在)の6人こどものクリスチャン家族です。
日本の教育の中で、勉強ができる子も、できない子も、一生懸命学んでも、学校に行かなくても、みんな、完璧に学んでしまうことがある。「私と神様は関係ない。」である。
親にも、先生にも、「あなたと神様は関係ありません。ことばと神様、算数と神様、科学と神様、歴史と神様、病気と神様には、関係がありません。」と熱心に教え込まれるどころか、いちども聞いたことはない。それで、学んでしまった。心底、信じてしまった。
教育において、もっとも重要なのは、その教育を与える者の「前提」である。前提の影響は絶大である。
「あなたは、神様に愛されている。聖書には、ことば、算数、科学、歴史、病気、ほかの何についてでも、もっとも根本的なところについての真理を教えてくれる。」と熱心に教え込んでいるつもりでも、教えている親たちの生きざまに、神様への喜びが表れていなければ、彼らは、学んでしまう。そうか、神様は重要ではない。
結婚と同時に、夫婦とも、キリスト者となり、神様の真理のみことばである聖書を、すべてに適用すべき世界観として教えてくれる教会の一員となった。聖書を「前提」として受け入れ、考え方も生き方もすべて再構築することになる。特に、福音総合研究所(http://berith.com/)での聖書の枠組みを学ぶ「聖書ブループリント」コースを受講するにつれ、この真理の喜びに立って、教育を考えるのは当然のこととなった。先輩の教会員のうち数家族は、ホームスクールでの教育をはじめており、ホームスクール以外の選択肢はまったく考えもしなくなっていた。
教えるためには、時間が必要である。聖書を通して、経済学や福祉、家庭について学ぶうちに、自分でそれを実践できる会社を始めたくなった。子どもを家庭で教えるためにも、ホームビジネスはもってこいである。第二子が生まれたとき、会社を辞め独立し、カンノ・カンパニー(http://kanno.com/)をはじめた。創設時は、大きな会社にするつもりだったが、どうも、ホーム・ビジネス&スクールが、私に与えられた使命のようだ。
サラリーマンのように、夫は仕事のことを話したくても通じない、妻は家のことを話そうとしても聞いてくれない、ということにはならない。仕事の話も、家庭の話も、共有できる。キッチンは、役員室兼教員室である。この一致なくして快適なホーム・ビジネス&スクールは成り立たない。
こどもが喜んで学ぶかどうかよりも、親が喜んで教えられるかどうかの方が大切だろう。教える時は、こどもではなく、おもに、妻の反応を見ている。父親が教え、母親が真剣に喜んで学んでいるなら、子どもたちは真剣になる。こともある・・・ ふたごがいないなら、家族の中には、同級生はいない。いつも上級生と下級生といっしょに学ぶことになる。食事と同じように、親もこどもも、父も、母も、大きい子も小さい子も、おなじごはんを食べる。読み書きそろばんは、それぞれの学年別に自習すればよいが、聖書は、自習だけにたよるわけにはいかない。
聖書は、時代を超え、世代を超え、年齢を超えて、それぞれのレベルで理解し、味わい、感動することができる不思議な書物である。まさにたましいの糧である。
日本語には、聖書を土台にしたカリキュラムも教科書もない。これはちょうど良かった。すべての文章にふりがなが振ってある唯一の書物は、聖書である。ひらがなさえ読めれば読める。聖書そのものが人生の教科書であり、すべてのすべての「バイブル」である。これを学ばずして何を学ぶのか。
問題は、学校のように教えようとするなら、準備に時間がかかりすぎて、継続することができない。あまり準備に時間をかけずに、しかも幅広く学べる方法が必要だった。それが、一週一篇法(http://saiwai.net)である。起業しながら、子育てしながらの試行錯誤だったが、現在、約7年。最近は、教会のホームスクール親子といっしょにEメール・グループで学ぶようになった。「親子で学ぶ聖書・詩篇研究・さいわいネット(http://saiwai.net)」である。
聖書を土台にした、ホーム・ビジネス&スクールとは、キリスト者家庭の再建そのものである。その祝福は図りがたい。口で説明しても、その心意気は伝わるものでもない。それこそ、次世代への相続財産である。毎日、毎日、ともに学び、喜び、悲しみ、祈り、感謝して歩むうちに、相続されていくものである。
教えたいところを、十分に教えることができるだろうか。真剣なキリスト者として、聖書の土台に立って生きる決意を明確にもってくれるだろうか。神を愛する者に成長するだろうか。祈ることを教えられる。
私たちが文化的な影響によって、昔からしみついてしまった感覚を洗い流し、聖書的な感覚をもつようになるには、三世代はかかるであろう。移民の二世は、半分、親の文化の影響が残り、三世になると、顔つき以外は、わからなくなる。四世になるとネイティブと見られるようになる。さらに、社会的にもその影響が現れ、文化が築き上げられていくには、数百年単位の時間がかかる。
開拓者たちは、荒地に、水を引き、耕すところから始める。ある人は、大きな木を切り倒し、岩を動かすだけで人生が終わるかもしれない。次世代は、その働きを土台にして、さらに先に進み、種を撒き、水をやる。そうやって、何代かかかって開拓していくなら、きっと、神様は祝福し、荒地を、豊かな実を結ぶ地へと変えてくださる。私たちは、その一歩を踏み出したところである。
2001年5月18日
塾長・菅野和彦