+ちゃんくんです。
詩篇146篇「7-9節の人たち」を見ました。
これらのことは、神様の義の現れである。
出エジプト記34章6-7節の主の御名についての宣言のこまかいことが146篇で説明されている。
モーセの律法の中で、貧しい者をあわれむようにということは何度も言われている。
このような弱い者たちをあわれんでも何も、益にならないので、みんなやりたくない。
そのような仕事をする人こそ、ほんとに神様を恐れているものである。
貧しくない者は神様が自分たちにそのようなことをしてくださったということをよく心に留めておかなければならない。
反対にサタンはこのような弱い者たちを狙って攻撃してくる。
ここで、盲人や、捕らわれ人というときに、ただたんに目が見えない人のことを言っているのではなく、イスラエルのことを言っている。
146篇にはなぜ、正しい者というのがこの話の中に出てくる。
7節のパンを与えるというのと、8節のかがんでいるものを起こすという言い方はとなりの145篇と147篇に出てくる。
ダビデはイスラエルの偉大な王様ではあるが、自分では貧しい者と呼んでいる。
詩篇という書物の中には貧しい者についてのことばはたくさん出てくる。
盲人の目を開けるということと、パンを与えるということは新約聖書の中でもキリストが多く行われている。
かがんでいる者を起こすということもキリストの行われる奇跡の中にあることである。
しかし、捕らわれ人を釈放するというようなことは、直接はないことである。
虐げられる者のためにさばきを行うということは非常に大切なことである。
貧しい者、弱い者、みなしご、やもめは正しいさばきが行われないことをこまっている。
在留異国人を守るということはモーセの律法の中ですごく強調されている。
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+審也@カンノファミリー
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