Subject: Re: [saiwainet] 詩篇30篇6節は傲慢か確信か |
From: "Saito@COSMOS" <cosmos@ca2.so-net.ne.jp> |
Date: 2001/04/04 22:56 |
To: saiwainet@egroups.co.jp |
斎藤です。
6節について、ダビデの傲慢か、正しい確信かについて、 それぞれの意見が書いてあります。 私は、正しい確信だと確信してます ;> みなさんは、どう思いますか?
私は傲慢派です。(ちょっと言い方が良くないな。) 理由は以下の2点です。 1。「ゆるがされない」を他の箇所で調べるときに、ある特徴を 見つけることができます。他の箇所では、「ゆるがされない」 と言うときに、「神にあって」、「主にあって」、「正しいものは」 などはっきりと主に従い、主にあってゆるがされないことがわかります。 しかし、この箇所では、「私が」、「私は」、「私は」の私三点セット になっています。明らかに「私」が強調されています。 これはペテロがキリストを3度否定することを思い出させます。 2。構造を考えるときに、よく分からなかった点があります。 a.1節の敵とは誰のことか b.6節は確信か、傲慢か c.7節はどの節にかかる節なのか aは考えても考えても分かりません。そこでbとcを考えてみました。 聖書では間にギャップがあるので、分かれ目かと思っていたのですが どうもそうじゃない気がしてきました。 6と7節を一緒に考えると、6節は傲慢な態度を表しているようです。 もし傲慢な言葉であるならば、1節との関連性もありそうです。 でもどのような関連性か分かりません。 そこで他の節を見てみました。 どうも並行している言葉があるようです。 ・叫び求める(呼び求める) ・よみから引き上げ(荒布を解き) ・主をほめ歌え(あなたをほめ歌い) ・感謝 何となくですが、2-4と7-12が並行しているように見えてきました。 6と7節は一緒にすることにしたので、2-4と6-12が並行しているようです。 あと残りは1と5です。並行していることを前提にすると、 どうも1と6、7節が並行しているようです。 1節は、神がダビデを引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかった となっています。これはダビデが罪を犯したけれども、神がその罪から 引き上げてくださって、敵を喜ばせなかったということになります。 6、7節を見るときに、「私は決してゆるがされない」とダビデが言っている 時、ダビデはおじ惑っていた(実際に言っているときは気がつかなかったが、 後で、その罪を知ったとき、おじ惑っていたと悟った)が、神は恵みにより 私の山を強く立たせてくださった。内容的に並行しているような気がします。 こうしてみてみると、5節がキアスマスの中心のようです。 では、ダビデの人生の中で、「私は決してゆるがされない」と言って 偶像礼拝をしたが、主は契約を守りダビデの山を強く立たせ、 敵を喜ばせなかった時はいつのことか。 やはりスミスさんの節のように、人口調査の時がそうなのではないで しょうか。 1歴代誌21からの箇所を見てみると、 ・サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、 イスラエルの人口を数えさせた。(21:1) ・神はエルサレムに御使いを遣わして、これを滅ぼそうとされた。 主は御使いが滅ぼしているのをご覧になって、わざわいを下すこと を思いなおし、滅ぼしている御使いに仰せられた。 「もう十分だ。あなたの手を引け。」(21:15) ・ダビデと長老たちは、荒布で身をおおい、ひれ伏した(21:16) ・わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。 あなたの民は、疫病に渡さないでください。(21:18) ちょっと長くなってしまいましたが、みなさんはどう思われますか?