Subject: 詩篇66篇 今日の家庭礼拝ノート(ケイヤ) |
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Date: 2001/12/19 12:37 |
To: <saiwainet@egroups.co.jp> |
こんにちは、+カンノケイヤです。
今日の家庭礼拝で昨日の質問の答えをやったのでまとめました
1)なぜ、異邦人は恐ろしいさばきを見て賛美できるのか?
さばきを受けている人自身は神を賛美するのではない。それを外から見ている人が神
を賛美するのである。
しかし、ただのさばきではなく、弱いと思っているいる人が勝つという話である。
ダビデとゴリヤテの例を見るとダビデはただの羊飼いで戦いの経験は羊を野獣から守
るだけである。しかし、相手のゴリヤテは背が高く、ペリシテ人の中で代表戦士であ
るほど強い。この二人が戦うときにイスラエル人でさえもダビデが勝つとは思ってい
ない。しかし、ダビデは神に信頼して戦ったので勝った。
ダビデ自身も分かっていたように、イスラエルの神と神々との戦いである。もしもダ
ビデが勝つとそれはイスラエルの神の勝利なのでその神を賛美することになる。
2)キリストのご降誕と十字架の勝利はどちらが大切なみわざなのか?
最初、三つの考え方があった。
1)ご降誕が大切
2)十字架の勝利が大切
3)両方とも大切
しかし、これはすべてまちがっている。すなわちこの二つのみわざは一つのみわざで
切り離すことができないということである。キリストの誕生からAD70年のエルサレ
ム陥落までは同じみわざである。このあいだのみわざを切り離すことはできない。
体で例えると目と口と鼻と耳のどれが大切なのかと言われたときにすべてが大切でこ
れだけが大切だというのはない。
また人生で例えると生まれたときとバプテスマのときのどちらが大切なのかと言った
ときに一つの人生なので切り離せない。
そのようにこのみわざも一つである。
質問
国々がさばかれるのを見て、国々は「おれがこいつに勝ってやる」ということにはな
らないのか?
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+カンノケイヤ@カンノファミリー
mailto:keiya@kanno.com
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