Subject:
「だれが神の子どもとされるのか?」
From:
Mikuni Kanno
Date:
2010/01/06 13:50
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

「だれが神の子どもとされるのか?」 菅野みくに 2010.1.6

ガラテヤ人への手紙は、パウロがガラテヤの諸教会に宛てて書いたものである。ガラテヤ人への手紙と聞くと、神学論争的なことを考えてしまう。しかし、本当にそれは正しい連想なのか。
では、「だれが神の子どもとされるのか」という問いを持って、ガラテヤ人への手紙を見てみる。

■異邦人と割礼を受けた人々

 だれが神の子どもとされるのか?
パウロは、自分には異邦人(割礼を受けない者)に対して福音を宣べ伝える使命があることを度々強調している(1:16,2:2,7,8,9)。
にせ兄弟たち、かき乱す者たちは、割礼を強いており、キリストの福音に反することを宣べ伝えている(1:7)。しかし、キリストの啓示によって受けた福音を宣べ伝えているパウロは、割礼を強いることをせず、異邦人でもキリストを信じる信仰によって義と認められることを教えている。

 キリストが十字架にかかって下さったことにより、アブラハムへの祝福は異邦人にも与えられた(3:14)。すべてのものは、キリストを信じる信仰によって、神の子どもとされる(3:26)。そこにはもはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もない。なぜなら、キリストを信じる者は一つとされ、キリストのものとなったからである(3:27-29)。それによって、アブラハムの子孫であり、約束による相続人となった。つまり、神の子とされたのである。
 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではない。大事なのは愛によって働く「信仰」、「新しい創造」である(5:6,6:15)。

■律法による義と信仰による義

 どのように神の子どもとされるのか?
人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリストを信じる信仰によって義と認められる(2:16)。義と認められるとは、神の子どもとされるということである。

 では律法とは何なのか?
それは、キリストが来られるときまで、違反を示すために与えられたものである。律法は決して神の約束に反するものではない。ただ、信仰が現れる以前に、キリストへ導くための養育係であったのである(3:24)。
しかし、信仰が現れた以上、キリストに対する信仰によって、神の子どもとされた。信仰とは十字架にかかって死んでくださった神の御子を信じることである。

 神の子どもとなったものは、もはや奴隷ではない。自由の子、つまり約束の子とされたのである。

■肉の行いと御霊の実

  それでは、信仰によって義と認められ、神の子どもとされた者たちは何をしなければならないのか?
 御霊によって歩まなければならない。御霊によって歩むとは、御霊の実を結ぶことである。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制であって、これらのことを禁じている律法はない(5:22-23)。むしろ、律法全体は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされる(5:14)。

 では、肉によって歩むとはどのようなことなのか?
 肉の行いは、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものであって、このようなことを行う人たちは神の国を相続することはない(5:19-21)。これらの行いは「欲望」という一言でまとめられる。

 御霊によって生きるなら、互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりせず、互いの重荷を負い合うべきである。肉と御霊は互いに対立している。自分の肉のために蒔く者は、滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、永遠のいのちを刈り取る(6:8)。肉の行いをする者は死に至り、御霊によって歩むものは永遠のいのちに至る。

  なぜ神の子どもとされることは、これほど重要なことなのか。それは、神の子どもとされたものは、キリストとともに相続人となり、御霊の祝福を受けることが出来るからである。

■結論

 これらのことから分かるように、この手紙は、だれが神の子どもとされるのか、どのように神の子どもとされるのか、神の子どもとされたものたちは何をするべきかという問いに答えている手紙である。
これらの問いに対して、パウロは「律法による義」と「信仰による義」、「異邦人」と「割礼を受けた人々」、「肉の行い」と「御霊の実」というような対義語を使って答えている。