Subject: 「ガラテヤ人への手紙の構造」 |
From: Mikuni Kanno |
Date: 2010/01/07 14:41 |
To: saiwainet@yahoogroups.jp |
「ガラテヤ人への手紙の構造」 菅野みくに 2010.1.7 ガラテヤ人への手紙は、1:6-2:14、2:15-4:11、4:12-5:6、5:7-6:16と大きく4つに分けることができる。1:1-5と6:17-18は挨拶である。この手紙には、「異邦人」と「割礼を受けた者」、「信仰によって義と認められる」と「律法の行いによって義と認められる」、「福音の真理」と「別の福音(1:7)」、「奴隷の女の子」と「自由の女の子」、「御霊」と「肉」など、たくさんの対義語が出てくる。 では、これらの対義語にはどのような意味があるのか。 ■異邦人と割礼を受けた人々 1:6-2:14では、「だれが神の子どもとされるのか。」という問いに答えている。 パウロは、自分には異邦人(割礼を受けない者)に対して福音を宣べ伝える使命があることを度々強調している(1:16,2:2,7,8,9)。 かき乱す者たちは、割礼を強いており、キリストの福音に反することを宣べ伝えている(1:7)。しかし、キリストの十字架によって、アブラハムへの祝福は異邦人にも与えられた(3:14)。すべてのものは、キリストを信じる信仰によって、神の子どもとされる(3:26-29)。 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではない。大事なのは愛によって働く「信仰」、「新しい創造」である(5:6,6:15)。 ■律法の行いによる義と信仰による義 2:15-4:11では、「どのように神の子どもとされるのか。」という問いに答えている。 人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリストを信じる信仰によって義と認められる(2:16)。義と認められるとは、神の子どもとされるということである。 律法は、キリストが来られるときまで、違反を示すために与えられたものである。律法は決して神の約束に反するものではなく、キリストへ導くための養育係であった(3:24)。 ■奴隷の子と自由の子 4:12-5:6では、「 」という問いに答えている。 神の子どもとなったものは、もはや奴隷ではない。自由の子、つまり約束の子どもとされたのである。キリストは自由を得させるために、私たちを解放して下さった。自由の子は神による相続人である。 ■肉の行いと御霊の実 5:7-6:16では、「神の子どもとされた者たちは何をしなければならないのか。」という問いに答えている。 神の子どもたちは、御霊によって歩まなければならない。御霊によって歩むとは、御霊の実を結ぶことである。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制である(5:22-23)。 では、肉の行いとは何か。 肉の行いは、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものである(5:19-21)。これらの行いは「欲望」という一言でまとめられる。 御霊と肉は互いに対立していて、御霊によって歩むものは永遠のいのちに至り、肉の行いをする者は死に至る。 ■結論 なぜ神の子どもとされることは、これほど重要なことなのか。それは、神の子どもとされたものは、キリストとともに王となり、御霊の祝福を受けることが出来るからである。