Subject:
律法はいったい何だったのか。
From:
Yutaka Suwazono
Date:
2010/01/09 13:21
To:
saiwainet


ガラテヤ人への手紙
                                             諏訪園 豊 1月9日

 「律法とはいったい何だったのか。」
これはこの手紙を読むガラテヤの人々の共通の問いであろう。
割礼派の人々は彼らのなかにしのびこみ、
異邦人たちの割礼という外見において自分たちの誇りを求めていた。
↑このような人々は首に石臼を結わえて湖に投げ込まれた方がまし。
あの使徒のペテロでさえ、その体面を大切にする誘惑に陥ってしまった。

 この本心を偽った行動とキリストの十字架すなわち福音の真理は一見関係のないように見えるが、
キリストが「子供のための律法」のくびきから解放し、自由人、大人として行動させるという関係において、
そうではない。

 ガラテヤ人にパウロは問い返す。
では、なぜあなたがたはあの無力、無価値の幼稚な教えに戻ろうとするのか。
御霊を通して信仰をあたえられ、信仰によってキリストを知った人々が、
なぜキリストへ導くものである律法の奴隷に逆戻りしようとしているのか。まったくもっておかしい
 人間と律法との関係には救いが必要であった。
律法はキリスト以外の人間に負い切れないものだったからだ。
したがってキリストは律法を否定しない。完全に成就された。

 そもそも、キリストが十字架にかかってくださったのは何のためか。
この問いをもって、福音の真理を忘れていなければ、あのような逆発展は起こらない。

 私たちが目をとめるべきものは、
肉を誇るのではなく十字架(キリストが私たちに与えてくださった豊かな恵み)を誇るということである。私たちは自由人である。自由人らしく歩まなければならない。