Subject:
エペソ人への手紙「光の子どもらしい歩み」
From:
Koh Aoki
Date:
2010/01/12 23:47
To:
Saiwainet

青木光
2010.1.12

ー光の子どもらしい歩みー

 エペソ人への手紙の後半において、パウロは、召された者たちがどのように歩むべきか、ということについて書いている。そこで、パウロは「光の子どもらしく歩みなさい。」という言い方をする(5:8)。では、光の子どもらしい歩みとは、どのような歩みのことなのだろうか。

 この問題について考える時、まず、光の子ども、というのがどのようなものなのか、ということについて考えなければならない。光の子ども、という表現が使われている五章一節から二十一節の段落では、このフレーズの対義語として、「暗やみ」、「不従順な子ら」という言い方が出てきている。そこで、光の子どもは「以前は暗やみ」であったが、「主にあって、光と」されたということが書かれている(5:8)。また、「不従順な子ら」という言い方については、この箇所の他にも、エペソ人への手紙の中で、二章二節と三節にも出てきている。その箇所で、「不従順な子ら」というのは、肉欲の中に生き、御怒りを受けるべき子ら、というように定義されている。光の子どもはこのような「暗やみ」に生きる「不従順の子ら」の中から、主にあって救われた者たちである。つまり、光の子どもというのは、主イエス・キリストご自身というささげものによって、御恵みのうちに救われた、愛されている子どもである(2:4-10,5:1-2)。
 では、このように救われた光の子どもは、どのように歩まなければならないのだろうか。まず、第一に、光の子らは、不従順の子らとは反対の生き方、歩み方をしなければならない。また、「光の結ぶ実」として明記されている、善意、正義、真実という三つの行いを行わなければならない(5:9)。これらを行うためには、「主に喜ばれることが何であるかを見分け」なければならないのである(5:10)。つまりは、愛によって召された者たちとして、愛によってキリストの体として一致し、かしらなるキリストに達しなければならない、ということである。光の子どもの歩みとして、愛というものは非常に強調されている。

 このように、キリストの愛によって救われ、御霊を与えられた光の子らは、「神のすべての武具」を身に着けて、歩まなければならないのである(6:11,13)。すなわち、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の大盾、救いのかぶと、御霊の与える剣である神のことばを取り、暗やみの世界の支配者たち、悪霊たちに対して、御霊によって祈りつつ、戦わなければならないのである(6:14-20)。

-- Koh Aoki