Subject: エペソ人への手紙 (2010/01/12) |
From: Miwaza Jemimah |
Date: 2010/01/15 7:26 |
To: saiwainet@yahoogroups.jp |
「エペソ人におけるかしらなるキリストの体である私たちのあるべき姿とは?」 キリストは恵みと愛によって、私たちに奥義を知らせ、御国を受け継ぐ者として くださった。そのキリストの恵みと愛を表すものとは、十字架と復活である。罪 のために死ぬべき私たちに代わって、キリストが十字架で死んでくださり、私た ちもともによみがえらされた。これこそが、神の愛と豊かな恵みの現れである。 では、どのようにして、十字架の恵みの話が私たちがキリストの体であることに つながっているのだろうか? キリストが十字架で死に復活する前には、私たちは異邦人であり、神から遠く離 れているものだった。しかし、キリストが私たちの身代わりとして死んで復活し てくださったことにより、キリストの体の一部とされたのだ。なぜなら、私たち はキリストにあって神の家族であり、一つの御霊を持つものだからである。それ ゆえ、キリストの体の一部とされた者たちの間には、異邦人というものは無い。 それは、キリストにあって異邦人も相続人であり、キリストの体だからである。 そして、これこそが、パウロの述べ伝えている福音の”奥義”でもある。 エペソ人への手紙においては、キリストの体の一部とされた私たちが、どのよう に歩むべきなのか、パウロは教えている。異邦人であった時のように歩むのでは なく、神の作品として良い行いをする、というのが全体的なことであるが、それ は、もう少し細分化してみるために、エペソ人への手紙において「互い」という 言い方がでてくる箇所を取り出してみると、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容 を示し、愛をもって互いに忍び合い」、「真実を語り」、「お互いに親切にし、 心の優しい人となり」、「互いに赦し合い」、「詩と賛美と霊の歌とをもって、 互いに語り、(賛美し)…」、「キリストを恐れ尊んで、互いに従う」ことだと いうことがわかる。 そして、それらはすべて、互いにキリストの愛のうちに歩む、ということにつな がる。なぜなら、これがキリストにある一致であり、キリストの体は一つだから である。その一つの体にも多くの部分があり、それぞれ与えられている働きとい うものがあるわけだが、それらは結局一つの召しから来ているものであり、最終 的には体全体として一つのものなのである。