Subject:
エペソ人への手紙「どのような歩みをするべきか」
From:
Mikuni Kanno
Date:
2010/01/19 7:18
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

「どのような歩みをするべきか」 菅野みくに 2010.1.18

 エペソ人への手紙では「歩む(G4043)」という言葉が7回も使われている。では、キリストによって妻とされ、子どもとされた私たちはどのように歩まなければならないのか。

 私たちは罪の中にあってこの世の流れに従って、歩んでいた(2:2)。しかし、神様は私たちを愛して下さり、罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともによみがえらせて下さった(2:4-6)。これはただ、神様の恵みによる。
神様の恵みによって救われた私たちは、良い行いに歩むようにされた(2:10)。

 パウロは召された私たちが、その召しにふさわしく歩むように勧めている(4:1)。その歩みとは、謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を保つことである(4:2-3)。一つになることは、召しにふさわしい歩みである。なぜなら、私たちひとりひとりは各々キリストのからだの器官だからである。
 一つになるためには愛が必要である。パウロは私たちが神様に愛されている子どもらしく、愛のうちに歩むように命じている(5:2)。愛のうちを歩むものは、もはや暗やみの中を歩まず、光の子どもとして光の中を歩まなければならない。光の中を歩むときに、善意、正義、真実などの実を結ぶことが出来る。

 では、どのような歩みをしてはいけないのか。それは、異邦人が歩んでいるようなむなしい歩みである(4:17)。むなしい歩みとは、知性において暗くなり、無知であり、神様から遠く離れることである。
私たちは異邦人のような歩みではなく、賢い人のように歩まなければならない(5:15)。賢い人とは、愚かではなく、主のみこころが何であるかをよく悟る人である。

 結局、私たちのしなければならない歩みとは、御霊に満たされ、主に向かって賛美し、すべてのことについて父なる神様に感謝をし、キリストを恐れ尊んで互いに従うことである(5:15-21)。