Subject:
ピリピ人への手紙におけるパウロの喜びとは
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/01/27 5:54
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。 」。ピリピ
4章4節のこの命令は、何度も引用されたりしているのを聞いたことがあると思
うが、パウロはなぜここまでピリピの教会に対して「喜ぶように」と命じている
のだろうか。13回も「喜び」([5479]5回/[5463]7回)という言葉が使
われているが、パウロはなにを喜びとしているのか、また、私たちは何を喜ぶよ
うにと命じられているのだろうか?

この手紙を読むと、パウロの喜びの一つがピリピの教会そのものであったことは
非常に明白である。彼が投獄されている時にも、それはピリピの教会は喜びと
なっていた。また、パウロがそのような状態に置かれることによっても、キリス
トの福音がさらに広められていき、それもまた喜びがさらに増し加わる事となっ
た。パウロはこのような中で「いっしょに喜んでください」と書き送り、彼らが
喜びに満たされ、愛の心を持ち、心を一つにして、一致を保つように、とピリピ
の教会を励ましている。なぜなら、この一致こそがキリストの救いの現れだから
である。それゆえに、パウロはどのような状態に置かれても、たとえ自分が注ぎ
の供え物となったとしても、喜ぶ、と言っている。

パウロがこの手紙で、もう一つ喜びだと言っているのは、エパフロデトのことで
ある。彼は、死ぬほどの病気にかかったが、神様のあわれみを受けた。そのため
に、パウロは彼をピリピの教会につかわそうとしている。そこで、ピリピの教会
は彼を喜んで迎えるようにと繰り返し言われている。

パウロが「最後に」と言って命じていること、それも「喜びなさい」である。こ
こで言われている理由の一つは「安全のため」である。喜ぶことはなぜ安全につ
ながるのだろうか。なぜなら、喜びによって教会が真の一致を持っている時に、
周りはその堅固な一致を壊すことはできないからである。つまり、私たちは信仰
の戦いの中でこそ、大いに喜びに満たされなければいけない。だからパウロも、
たとえ自分が投獄されていようとも、そのような状態にあるからこそ、兄弟、同
労者、戦友に喜びなさい、と繰り返し呼びかけているのだ。

なぜ戦っている時にも、苦しみの中にある時にも私たちは喜ぶことができるの
か、それは、私たちにキリストからの栄冠が約束されており、復活の望みをもっ
ているからである。私たちは今この世において戦っているが、キリストにあって
望みがあるので、喜びに満ちあふれて戦うことができる…