Subject: ピリピ人への手紙小論文 |
From: Koh Aoki |
Date: 2010/02/01 10:41 |
To: Saiwainet |
---------- 転送メッセージ ---------- From: Kento Aoki <kento@arkios.co.jp> 日付: 2010年2月1日8:58 件名: さいわいねっとに転送お願い To: koh <koh@arkios.co.jp> ピリピ人への手紙小論文 <苦しみの中での喜び> ピリピ人への手紙にはパウロが投獄されている様子が1章に書かれ ています。パウロ自身、彼の「願いは、世を去ってキリストとともにいること」と23節で言っています。ですが、彼はそのような中にあっても喜び、感謝することについて書いています。一見矛盾しているかのように見える「苦しみの中での喜び」とはどういうものなのでしょうか。 ピリピ人への手紙における「苦しみ」とは教会に対する迫害ですが、教会に害を加えようとする敵の働きには2種類あります。一つは、キリストの御名のゆえに投獄されるという外的な攻撃(1:13, 3:18等)、二つ目は、教会内部のキリストの福音を曲げて宣べ伝える悪い者たちの攻撃です。(1:17, 3:2等)パウロを投獄することで同労者たちと働くことを妨げたり、教会内部で分派を起こそうと福音を曲げたりと、彼らのどちらの攻撃にも共通しているのはクリスチャンたちの一致を妨げるという部分でしょう。 ここで興味深いのはパウロは「喜び」について書くときに「一致」について言及している点です。2章2節の「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち・・・」や、4章1節では「・・私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び・・」のようにピリピの教会の一致がパウロの喜びとなっています。 さらには、パウロは手紙を読むピリピの教会の人たちにも「・・同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。」(2:18)と勧めます。この箇所は、「・・信仰の供え物となっても、私は喜びます・・」(2:17)というキリストの体の一部となるという意味において、一致を持つようにというパウロの勧めです。教会を迫害する者たちの攻撃の前には「キリストにあって励まし、愛、交わり・・一致を保つ・・」(2:1-2)ことがもっとも重要なものだからです。 教会を導く立場にあるパウロに対する迫害は大きいものでしたが、その中で彼が喜んでいたのはキリストの教会の、愛による一致だったのです。 我々もキリストにあっての一致を喜びとして、ともに「神の栄冠」(3:14)を目指して一心に走ろうではありませんか。 自分コメント:後半から結論に突っ走りすぎて論理的でない文章が多い。-- Koh Aoki