Subject: ピリピ人への手紙:天にある栄光、地にある栄光 |
From: Miwaza Jemimah |
Date: 2010/02/03 5:41 |
To: saiwainet@yahoogroups.jp |
ピリピ3章20節「私たちの国籍は天にあります。」は何度も引用されていること を聞いたことがある。墓石に書かれていたり、葬儀のしおりに書かれていたりす る。では、パウロは本来どのような意図で「私たちの国籍は天にあります。」と 言ったのか。この言い方は、どのような意味でピリピの教会の励ましになったの だろうか? この時、ピリピの教会は福音のための戦っていた。パウロも「同じ戦いを経験し ている(1:30)」と言っているように、投獄や貧しさ等によって、キリストのた めの苦しみを受けていた。にもかかわらず、教会もパウロも喜びに満ちあふれ、 お互いの戦いぶりを励ましとし、キリストの福音のための戦いを一心に戦ってい た。では、福音のための戦いにおける敵とは誰であったのか?それは、投獄を始 め(1:)、病気(2:27)や貧しさ(2:25; 4:11,12)、また、反対者たち(1:28)や悪 い働き人(3:2)等で「十字架の敵(3:18)」とも呼ばれている。 これら「十字架の敵」の最後は滅びなのであるが、この地上にあっては、一見、 敵が栄光を受けているようにも思われる。しかし、それはあくまでも地上におけ る栄光であり、後には彼ら自身の恥となるものだ(3:18)。反対に私たちは、天に おられるイエス・キリストを望みとしている。なぜなら、たとえ地上において私 たちはキリストのための苦しみを受けたとしても、キリストの復活を知ってお り、必ず天において栄冠(3:14)が与えられることを信じているからだ。彼らは 地上のものであるから、今一時的な栄光を受けるとしても、天に国籍のある私た ちは復活して、キリストにある永遠の命を望みとして戦い続ける。それゆえ、私 たちの目指しているも神の栄冠とは、敵にとっては恥となるのである。 では、敵とは違い私たちにこの地上で「栄光」のようなものは無いのだろうか? 確かに私たちに「栄光」は無い。ただし大いにある、とも言える。なぜなら、パ ウロも教会も後に与えられる栄冠を望みとして、喜びに満ちあふれ、福音を述べ 伝えている姿こそが、神の御栄え(1:11)の現れであるからだ。御父の栄光は私 たちの栄光でもある。それゆえ、私たちが望みとしている、天で頂く栄冠とは 「キリストの栄光のからだと同じ姿にされる(3:21)」ことであり、そのように された者こそが、天に国籍持つ者なのだと言える。 たとえ投獄されていたり、乏しかったとしても、愛の心を持ち、一つとなって喜 び、感謝に満ちあふれていることによって、私たちは神様の栄光を現すことにな る。それは、この地上のみで終わるのではなく、天においても永遠に続くもので あり、これこそが福音の勝利の現れなのである。