Subject: ピリピ人への手紙:「義のために迫害されている者は幸いです」 |
From: Miwaza Jemimah |
Date: 2010/02/05 21:46 |
To: saiwainet@yahoogroups.jp |
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからで す。(マタイ5:10)」これは、キリストが山上の説教で教えてくださったことであ るが、迫害されることをなぜ幸いであると言えるのか?また、義のための迫害と 天の御国の関係性は何なのだろうか?それは、まさにピリピ人への手紙で、当時 のピリピ教会とパウロが経験していた苦しみを通して、具体的に伝えられている 通りである。 - 福音の戦いの敵とは誰か? 当時、ピリピの教会は福音のための戦い、という迫害の中に置かれていた。パウ ロも「同じ戦いを経験している(1:30)」と言っているように、投獄や貧しさ等 によって、キリストのための苦しみを受けていた。にもかかわらず、教会もパウ ロも喜びに満ちあふれ、お互いの戦いぶりを励ましとし、キリストの福音のため の戦いを一心に戦っていた。 では、福音のための戦いにおける敵とは誰であったのか?それは、投獄を始め (1:)、病気(2:27)や貧しさ(2:25; 4:11,12)、また、反対者たち(1:28)や悪い 働き人(3:2)等で「十字架の敵(3:18)」とも呼ばれている。 - 地上における苦しみと天における栄冠 これら「十字架の敵」の最後は滅びなのであるが、この地上にあっては、一見、 敵が栄光を受けているようにも思われる。しかし、それはあくまでも地上におけ る栄光であり、後には彼ら自身の恥となるものだ(3:18)。反対に私たちは、天に おられるイエス・キリストを望みとしている。なぜなら、たとえ地上において私 たちはキリストのための苦しみを受けたとしても、キリストの復活を知ってお り、必ず天において栄冠(3:14)が与えられることを信じているからだ。彼らは 地上のものであるから、今一時的な栄光を受けるとしても、天に国籍のある私た ちは復活して、キリストにある永遠の命を望みとして戦い続ける。それゆえ、私 たちの目指しているも神の栄冠とは、敵にとっては恥となるのである。 - 地上での神の栄光の現れ では、敵とは違い私たちにこの地上で「栄光」のようなものは無いのだろうか? 確かに私たちに「栄光」は無い。ただし大いにある、とも言える。なぜなら、パ ウロも教会も後に与えられる栄冠を望みとして、喜びに満ちあふれ、福音を述べ 伝えている姿こそが、神の御栄え(1:11)の現れであるからだ。御父の栄光は私 たちの栄光でもある。それゆえ、私たちが望みとしている、天で頂く栄冠とは 「キリストの栄光のからだと同じ姿にされる(3:21)」ことであり、そのように された者こそが、天に国籍持つ者なのだと言える。 - 福音の勝利 たとえ、投獄や乏しさ等の義のための迫害の中にあっても(マタイ5:10)、愛の心 を持ち、一つとなって喜び、感謝に満ちあふれていることによって、私たちは神 様の栄光を現すことになる。それは、この地上のみで終わるのではなく、天の御 国においても永遠に続くものであり(マタイ5:10)、これこそが福音の勝利の現れ なのである。