Subject:
Fwd: コロサイ人への手紙小論文<パウロの手紙における「奥義」の位置づけ>
From:
Kento
Date:
2010/02/10 23:59
To:
saiwainet





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差出人: Kento Aoki <kento@arkios.co.jp>
日時: 2010年2月10日 22:13:35JST
宛先: saiwainet@yahoogroups.jp
件名: コロサイ人への手紙小論文<パウロの手紙における「奥義」の位置づけ>

コロサイ人への手紙小論文

<パウロの手紙における「奥義」の位置づけ>

 パウロはコロサイ人の手紙でコロサイの教会に奥義を伝えたい、自分は奥義のゆえに牢獄に入れられていると言っています(1:27,
4:4等)。パウロが「奥義」という特徴的な言葉を使うことで何を意図しているのでしょうか。

■言葉の意味

 言葉の定義としては一般的に「奥義」という言葉は学問等の奥深い所といった意味です。実際パウロは1:26で「隠されていた・・奥義」と言っています。

■コロサイにおける奥義

 コロサイ人への手紙の中で直接「奥義」の内容に触れられている箇所はそんなにありません。
 最初に出てくるのは1章24−29節のキリストの十字架の福音を宣べ伝えることによって苦しみを受けることは栄光であって、これが奥義すなわち「キリスト、栄光の望みのこと」(1:27)と書かれている箇所です。
 次にパウロはコロサイ人への手紙の後半で「どう歩むべきか」という箇所との関連で「奥義」という言葉を使っています。コロサイの教会では2:8にあるような「だましごとの哲学」等の偽りの教えとの戦いがありました。その中には2:16の「祭りや新月や安息日のこと」といった古い契約の教えも含まれています。そういった新しい契約の影であるもの(2:17)ではなく、本体に目を留めるようにパウロは言っています。彼は長い間隠されていた奥義が明らかにされた今どう歩むべきか、ということをコロサイ人への教会に伝えています。
 ですが、その部分は「奥義」の説明としては物足りず、最初の1章のようにはっきりと言葉の説明として出てくる訳ではありません。

■エペソにおける奥義

 実は「奥義」が出てくるパウロの手紙はコロサイ人への手紙だけではありません。エペソ人への手紙3章にもあります。エペソ人への手紙でパウロは自分たちに示されている奥義によって今の苦しみは光栄であることを知る(3:1−13)といっています。

■パウロが奥義という言葉を使う理由

 このように、奥義とは「苦しみが栄光につながる」という説明はエペソでもコロサイでも同じです。パウロは奥義という言葉を使うことで、真の知恵と知識は隠されているものであり、それを得るための苦しみが今与えられているのだとエペソとコロサイの教会に書き送り、励ましていますコロサイ2:3)。それと同時に、簡単に得られる奥義のように見えるこの世の知識と知恵にだまされることのないように注意しているのです。

〜自分的コメント〜
・考えた事→文章にしきれていない。日本語的な問題か。
・最初の問い作りに失敗して書き始めた勢いがとまらず最後まで書き進んでしまった。途中で方向転換するべきだったのだろうか。

〜第一回目「なるほど」メモ〜
・詩編研究と手紙研究の客観的に違う点、難しいところは何だろう?
詩編は順番がうまく並べられているが、手紙の順番は確かなものがありま
せん。小預言書の場合も同様に順番は編集されたものですが、それがない
手紙は自分達で並べないといけません。

・手紙の送られている相手の場所を手がかりにして諸手紙の順番や関係を
研究できる可能性がありそうです。

以上。