Subject: コロサイ人への手紙:「コロサイの教会がパウロの苦しみを知ることの意味とは?」 |
From: Miwaza Jemimah |
Date: 2010/02/12 6:57 |
To: saiwainet@yahoogroups.jp |
「私がどんなに苦闘しているのか知って欲しいと思います。(2:1)」パウロはこ の手紙の中で、コロサイの教会に対し、自分が苦しんでいる、という状態につい て繰り返し書いている。なぜ彼は自分の苦しみをここまで知って欲しかったの か?彼の受けていた苦しみとは何だったのだろうか? - パウロが手紙を送っていた理由 パウロ自らがこの手紙の一番最後で書いているように、彼は牢の中からこの手紙 を送った。その事から、彼が苦しんでいる原因の一つが投獄であったことが分か る。そのような状態の中で、彼にはコロサイの教会の間にある愛について知らさ れ、それが彼の神様への感謝と祈りにつながった。つまり、自分の苦闘について 知って欲しいと書いている相手のコロサイからも、パウロに宛てた知らせが届い ていた、ということである。そもそも、この時代に手紙を送る目的の一つは、お 互いの置かれている状況を知らせ合う事だったとも考えられる。実際にパウロは この手紙の最後で、「一部始終を知らせる(4:7)」、「こちらの様子をみな知ら せる(4:9)」等というような言い方をしている。 - キリストの教会のために奮闘すること パウロは1章24節で「あなたがたのために受ける苦しみ」と言い、それに続い て、「その苦しみさえも喜びとしていた」、と伝えている。なぜなら、キリスト の教会のために奮闘し、苦しみを受けることは、キリスト御自身のためにしてい る事でもあるからだ。では、キリストのために受ける苦しみとは何だろう?それ は福音を広めることに伴う苦難であり、最終的には必ずキリストの栄光につなが ると言うことも約束されている。 - 苦しみの中にあるパウロの望み これがまさに苦しみの中にあったパウロの望みでもあった。それゆえ、彼もコロ サイの教会に苦しみの中にあっても、キリストにある望みを持ち、堅く立つよう にとこの手紙を通して励ましているのだ。このようにして、パウロについて知 り、彼をキリストに仕える者の模範とするためにも、彼はコロサイの教会に自分 の苦しみを知って欲しかったのではないだろうか。彼自身も死という苦しみを通 して人々を贖われたキリストを模範とし、教会に仕える者となった。 - 間違った教えに気をつけること 彼は栄光の望みを持つように、と教会を励ますと同時に間違った教えに気をつけ るようにと注意している。なぜなら、この間違った教えとは、キリストの福音で ある真の知識と知恵とは全く反対のものであり、人々をキリストに近づけるどこ ろか、かえって神から離してしまうものだからだ。コロサイの教会も1章21節に あるとおり、以前は「この世の教え」に従う者であったが、罪の赦しである贖い (1:14)を通して、神を知る真の知識が与えられ、新しい人とされたのである(3: 10)。だからこそ、パウロは一度離れた幼稚な教えに戻るようなことがないよう にと繰り返し教えている。 - 幼稚な教えと真の知識について 「幼稚な教え」とは、「人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の 苦行など(2:23)」であり、真の知識とは全く違うものである。古い人を捨 て、新しい人とされた私たちは、以前のような歩み方を捨て、キリストの真の知 識に満たされて、主にかなった歩み方をするようにと、この手紙から教えられ る。それを実現するためには祈りが必要である(4:2-6)。パウロもコロサイの 教会について「絶えずあなたがたのために祈り求めています。」と彼らに真の知 識が増し加えられる事を願い求めている。 - 感謝に満ちあふれて互いに仕え合う事 では、コロサイの教会にも教えられている、私たちが知るべき真の知識とは何な のか?答えは「キリスト御自身」である。私たちはそれを、キリストが歩まれた ように歩む、という教えとして適用する事ができる(3:15)。その歩みとは、3章 から4章にかけて「妻たちよ。夫たちよ。子どもたちよ。父たちよ。」等の言い 方を用いて具体的に命じられている箇所にある通り、特に、感謝に満ちあふれて 互いに仕え合う事なのである。 このように、キリストの真の知識を人々に伝えること、これが福音であり、その ためにパウロは苦しみを受けていたのだ。それゆえ、パウロの苦しみを本当に知 ることは、最終的にはキリスト御自身を知ることとなるのである。