Subject: コロサイ人への手紙「仕える者」 |
From: Shinya Daniel Kanno |
Date: 2010/02/12 13:56 |
To: Saiwainet |
「パウロは教会に仕える者となった」 菅野審也 2010.02.12 コロサイ人への手紙で「仕える」ということばが非常に目立つ。ガラテヤ人への 手紙や、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙を読めば、さらにこのことについ て理解できる。では、コロサイ人への手紙では、教会はキリストのからだとして どのような仕える者となるように教えているのか。また、何に仕える者となるべ きなのか。 以前は、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そし てむさばりの中に生きる者であって、そのような歩み方をしていたコロサイの教 会(3:5)。しかし、そこから救われ、キリストのご支配の中に移された者となっ た(1:13)。それなのに、苦しみの中にあったコロサイは、離れたはずのこの世の 幼稚な教えにだまされそうになり(2:20)、パウロを、またキリストご自身を偽り とするそのだましごとの哲学のために、信仰から離れそうになってしまっていた。 そのコロサイの教会に、パウロは自分も同じように苦しでおり、実際に牢の中に いて、教会に仕える者となったということを教えている。また、主にあって愛す る兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるエパフラスやテキコも同じようにキ リストに仕えていることをも示している(1:7, 4:7, 4:9, 4:12-13)。パウロたち の状況を知ったコロサイの教会は励まされ、この苦しい状態にあってこそ、互い に忍び合い、互いに赦し合い、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め詩と賛美 と霊の歌とにより、感謝にあふれた人になるようにとパウロは願っている(3:13, 3:16)。 この苦しい状態にあって教会がだましごとの哲学にだまされることのないために も、教会は、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、深い同情心、慈 愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなければならない(3:12)。 パウロの祈りはコロサイの教会が、神のみこころに関する真の知識に満たされて いる者となり、主にかなった歩みをし、主に喜ばれ、善行のうちに実を結び、神 の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし て、父なる神に喜びをもって感謝することができるようになるということであり (1:9-12)、なによりも、奥義であるキリストを真に知ることである(2:2)。私た ちの仕えるのはかしらなるキリストである。-- Shinya Daniel@KannoFamily mailto:+shinya@kanno.com :)