Subject:
コロサイ人への手紙:「幼稚な教えに気をつけなさい」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/02/17 6:33
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

このの手紙においてコロサイの教会の間にある愛について聞いたパウロは、真の知識に満たされ、主にかなった歩みをするように、と励ますと同時に、「だましごとの哲学(2:8)」や「幼稚な教え(2:18, 20)」等と呼ばれている間違った教えに気をつけるように、と警告している。では、この時問題となっていた、悪い教えとは何だったのか?それらはコロサイの教会にどのような影響を及ぼしていたのだろうか?

2章20節で「この世の幼稚な教えから離れた」と言われていることから、コロサイの人々が以前は「幼稚な教え」に従って歩んでいた事が分かる。彼らは、暗闇の圧政の下にあり(1:13)、キリストにある栄光の望みとはかけ離れた歩み方をしていた(1:27, 2:27)。その「歩み」とは、3章に具体的に列挙されている、不品行やむさぼり等の「地上のからだの諸部分」と呼ばれるものである。つまりパウロが注意しているのは、キリストとともに死んで復活し、キリストのからだの一部分とされたにもかかわらず(1:18, 2:19)、「古い人」に留まるということがないように、というおとである。

しかし、コロサイの教会には、すべての罪を赦され、贖いをされたのにも関わらず、幼稚な教えに基づく「以前のような歩み方」を続けてしまっている、という人もいて問題になっていたようだ。彼らの問題は「新しい人」は「キリストのからだの諸部分」であるべきなのに、地上のからだの諸部分を捨てられない、というものであり、これが、幼稚な教えに従って歩むということなのである。このように、「教え」は「歩み方・生き方」に直結しているものであり、だからこそ、パウロは悪い教えについて説明したり警告するだけでなく、コロサイの教会が知恵に知識に満たされて、主にかなった歩ができるように、と1:9-12で祈り求めている。

では、主にかなった歩みとは何なのだろう?3章12-17節にあるとおり、互いに愛し合い、感謝の心を持つことである。なぜなら、それはまずキリストがかしらとして、御自分のからだである教会を愛し、その間に平和を与えてくださったからだ。だから、からだである教会の間にも愛と平和が保たれる必要があるのだ。これは、「この世的な歩み方」と呼ばれている、悪い欲やむさぼりとは正反対のものだということも非常に明白である。もし、キリストと共によみがえらせられたのならば、そのような歩み方を捨て、教会の人々の間にはいつも愛と感謝が満ちあふれているようにしなければいけない。つまり、コロサイ人への手紙においては、主にかなった歩みとは個人的な話だけでなく、教会全体のあるべき姿として書かれている。それは「互いに〜しなさい」という言い方が複数回使われていることからも分かる。

これらの事を教えているパウロはまず自らが彼らに対して愛を示し、彼らについて感謝して祈る、ということを通して彼らに模範を示している。なぜならパウロ自身も、キリストの愛の模範によって福音を述べ伝える者とされたからである。この「福音」とは、キリスト御自身について伝えるものであるが、コロサイ人への手紙においては、「真の知識と知恵」がそれを指しているのではないだろうか。つまり、それは「主にかなった歩み」をする、ということで日々の生活に適用することができる。