Subject:
コロサイ人への手紙:「幼稚な教えに気をつけなさい」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/02/17 9:56
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

このの手紙においてコロサイの教会の間にある愛について聞いたパウロは、真の
知識に満たされ、主にかなった歩みをするように、と励ますと同時に、「だまし
ごとの哲学(2:8)」や「幼稚な教え(2:18, 20)」等と呼ばれている間違った教え
に気をつけるように、と警告している。では、この時問題となっていた、悪い教
えとは何だったのか?それらはコロサイの教会にどのような影響を及ぼしていた
のだろうか?

2章20節で「この世の幼稚な教えから離れた」と言われていることから、コロサ
イの人々が以前は「幼稚な教え」に従って歩んでいた事が分かる。彼らは、暗闇
の圧政の下にあり(1:13)、キリストにある栄光の望みとはかけ離れた歩み方をし
ていた(1:27, 2:27)。その「歩み」とは、3章に具体的に列挙されている、不品
行やむさぼり等の「地上のからだの諸部分」と呼ばれるものである。つまりパウ
ロが注意しているのは、キリストとともに死んで復活し、キリストのからだの一
部分とされたにもかかわらず(1:18, 2:19)、「古い人」に留まるということがな
いように、というおとである。

しかし、コロサイの教会には、すべての罪を赦され、贖いをされたのにも関わら
ず、幼稚な教えに基づく「以前のような歩み方」を続けてしまっている、という
人もいて問題になっていたようだ。彼らの問題は「新しい人」は「キリストのか
らだの諸部分」であるべきなのに、地上のからだの諸部分を捨てられない、とい
うものであり、これが、幼稚な教えに従って歩むということなのである。このよ
うに、「教え」は「歩み方・生き方」に直結しているものであり、だからこそ、
パウロは悪い教えについて説明したり警告するだけでなく、コロサイの教会が知
恵に知識に満たされて、主にかなった歩ができるように、と1:9-12で祈り求めて
いる。

では、主にかなった歩みとは何なのだろう?3章12-17節にあるとおり、互いに愛
し合い、感謝の心を持つことである。なぜなら、それはまずキリストがかしらと
して、御自分のからだである教会を愛し、その間に平和を与えてくださったから
だ。だから、からだである教会の間にも愛と平和が保たれる必要があるのだ。こ
れは、「この世的な歩み方」と呼ばれている、悪い欲やむさぼりとは正反対のも
のだということも非常に明白である。もし、キリストと共によみがえらせられた
のならば、そのような歩み方を捨て、教会の人々の間にはいつも愛と感謝が満ち
あふれているようにしなければいけない。つまり、コロサイ人への手紙において
は、主にかなった歩みとは個人的な話だけでなく、教会全体のあるべき姿として
書かれている。それは「互いに~しなさい」という言い方が複数回使われている
ことからも分かる。

これらの事を教えているパウロはまず自らが彼らに対して愛を示し、彼らについ
て感謝して祈る、ということを通して彼らに模範を示している。なぜならパウロ
自身も、キリストの愛の模範によって福音を述べ伝える者とされたからである。
この「福音」とは、キリスト御自身について伝えるものであるが、コロサイ人へ
の手紙においては、「真の知識と知恵」がそれを指しているのではないだろう
か。つまり、それは「主にかなった歩み」をする、ということで日々の生活に適
用することができる。