Subject:
コロサイ人への手紙「だましごとの哲学からの救い」
From:
Shinya Daniel Kanno
Date:
2010/02/19 14:15
To:
Saiwainet

「だましごとの哲学からの救い」 菅野審也 2010.02.19

教会には何らかの問題があるため、パウロや、また他の使徒たちは教会に手紙を
送って、彼らを励まし、その問題から立ち返って、福音のために主にかなった歩
みをするようにと命じている。では、コロサイ人への手紙ではパウロは何を彼ら
の問題として扱っているのか。

コロサイの教会の問題とは、一言でまとめると、「だましごとの哲学にだまされ
そうになってしまっている」ということである。彼らはそのような教えから救わ
れて、キリストのご支配の下に移されたはずであったのに、福音のゆえに苦しみ
を受けたことによって、以前の生き方にだまされそうになっている。では、だま
しごとの哲学(2:8)とは具体的には何なのか。

パウロはだましごとの哲学について、この手紙の中で、肉の思い(2:18)、この世
の幼稚な教え(2:8, 2:20)、この世の生き方(2:20)、人間の戒めと教え(2:22)、
人間の好き勝手な礼拝(2:23)等という言い方を使っても説明している。これら
は、みな地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさ
ぼりの中を生きることであり(3:5)、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥
ずべきことばを持つことである(3:8)。

このような教えにだまされそうになってしまっているコロサイの人々に、パウロ
は自分や、その他同労者も彼らと同じように、福音のために牢に入れられている
ことを知らせ、彼らがどのようにして救われ、またどのような者とされたのかを
教えている。
パウロが同じ苦しみの中にあって、彼らに願うことはただ、彼らが主イエス・キ
リストにあって歩み、自分と同じように、教会に仕える者となって、互いに忍び
合い、互いに赦し合い、互いに教え、互いに戒め、感謝にあふれた者となること
である。これはまさに、夫と妻、父と子、主人と奴隷の関係にあって求められて
いることで、かしらであるキリストとからだである教会の聖い関係である。

このような神との和解された関係にあるときに、コロサイの人たちは同労者のた
めに感謝をもって祈ることができ、同じ苦しみを共にしている人たちの様子を知
ることによって、心に励ましを受けることができる。また、父なる神も、苦しみ
の中にある教会を強めてくださり、真の知識に満たされた者として、福音のため
に仕える者としてくださる。

-- Shinya Daniel@KannoFamily  mailto:+shinya@kanno.com :)