Subject:
1テサロニケ人への手紙:「主の日を待つキリストにある兄弟たち」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/02/25 6:52
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

「主の日を待つキリストにある兄弟たち」

パウロは手紙を書く時に教会の人々について「兄弟たち」という呼び方を用いている。1テサロニケでは19回、その言い方をしている。ということは、パウロの手紙の中で、ローマと1コリントを除けば一番多くこの言い方が使われている手紙だ、ということになる。では、なぜパウロはテサロニケ教会の人々を「兄弟」と呼んでいるのか。どのようにしてテサロニケ教会の人々は、パウロに対し「兄弟」としてのつとめを果たしているのだろうか。

- テモテからパウロへの報告

パウロがこの手紙でしきりに彼らに会いたい、と繰り返している事からも分かるように、彼らは離れた場所にいた。そこで、パウロはテモテを教会に使わし、彼らが苦難の中でも主にあって堅く立つように(3:7)と励ました。すると、テモテはテサロニケ教会の信仰と愛についての知らせをパウロに報告したのである。そして、彼らが苦難の中にあっても信仰を保ち、互いの間に愛を持っている、という事実は、逆にパウロへの励ましと慰めとなった。それゆえパウロは彼らを「望み、喜び、誇りの冠」と呼んでいるほどである。

- パウロとテサロニケ教会の苦しみの原因

パウロもテサロニケの教会も患難の中にいた、ということはこの手紙において明白なのだが、その原因は何だったのだろうか。それは、5章からの箇所に書かれている通り、主の日を待っている、ということに関する苦しみであった。主の日とは、この手紙で使われている別の言い方でいえば「主イエス・キリストの来臨のとき」であり、彼らにとって救いの望みであった(5:9)。しかし、そこに至るまでには、主の日がまだ来ていないのにも関わらず、偽の騒ぎがあったり、「平和だ、平和だ。」と言っている者たちが現れたり、という問題があった。なぜなら、キリストを既に信じている者たちにとって、主の日とは救いの現れであるが、そうではないものにとってはさばきと滅びの日だったからである(5:4)。

- 偶像から神に立ち返った者たち

このような苦しみの中にあっても、テサロニケの教会は愛と感謝に満ちあふれていた。それが、パウロにとって、大きな喜び、そして感謝となったのであるが、テサロニケ教会の人々も以前は、主の日のさばきの対象である偶像に従う者たちだったのだが、「偶像から神に立ち返って」神に仕える者とされた(1:9)。それによって、彼らはパウロのキリストにある兄弟となったのである。パウロが激しい苦闘と苦難の中で、テサロニケ人の教会に福音を述べ伝えたことによって、彼らはみことばを受け入れ、神に仕える者へと変えられたのだ。そして、さらには彼らの信仰も人々に伝えられていくことになった。というのは、彼らは福音を受け入れることによって「主にならうもの」になったのだが、彼ら自身も信者の模範となったからである。

- パウロのテサロニケ教会への励まし

パウロはテサロニケ教会の模範的信仰について神様に喜び、感謝すると同時に、ますます(4:1,
10)彼らの愛が深まり、主にかなった歩みをするように、と励ましている。なぜなら、主の日にキリストを信じている者たちは、悪者のように自分の汚れた行いのために滅びるのではなく(4:3-6)、「聖なるもの」とされるからである(3:13,
4:3, 4, 7, 5:23)。また、その日を待つ間の患難の時にこそ、互いの間の愛、そして、平和が保たれる必要があるのだ。パウロがテサロニケ教会の人々に会いたい、と繰り返し言っているのも、苦しみの中で兄弟同士が互いに励まし合い、信仰が堅く立てられるためである。そのためには何をしなければいけないのか?それは、パウロが命じているとおり「いつも喜び」、「絶えず祈り」、「感謝する」ことである。それを実行するときに、テサロニケ教会がパウロにとってそうであったように、苦難の中にいる他のキリストにある兄弟達にとっての励ましとなり、慰めとなるのである。