Subject:
1テサロニケ人への手紙:「聖とされることについて」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/03/03 7:02
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

私たちが「聖く、責められるところのない者」とされるように、という祈りは1テサロニケで二度なされている。また、パウロもテサロニケ教会に対し「聖くあるように」と4章3節からの箇所で命じている。この命令から分かるのは「聖くある」ことは「神のみこころ」だ、ということである。では、「聖くある」とは具体的にどのような生き方をすることなのだろうか?なぜ、聖くあることが神のみこころなのか?

テサロニケ教会に福音が述べ伝えられる以前は、彼らは偶像に仕える者たちであった。しかし、パウロと他の使徒たちが苦難の中にあっても福音を述べ伝えたことによって、神に仕える者と変えられた。また、その福音とは言葉だけでなく、パウロたちの振る舞いもそうであり、彼らの行いはテサロニケ教会への模範となった(1:5,
2:7, 10)。その振る舞いについては2章10節にある通り、「敬虔で、正しく、責められることのないもの」であった。なぜなら、それは「主イエスが再び来られる日」の聖徒たちのあるべき姿だからである(3:11-13)。それゆえ、パウロは教会について、彼らが主の日に神の御前で「聖く、責められるところのない者となるように(3:11-13)」と祈るとともに聖なる歩みをするように、と命じている。なぜなら、パウロが言っている通り、聖くなることは「神のみこころ(4:3)」であり、神様が聖徒たちを召された理由だからである(4:7)。

では、この手紙を通してパウロが命令している「聖い歩み」とはなんだろうか。それは、「互いに愛し合い(4:12,
4:9)、慰め合い(4:18)、励まし合い(5:11)、徳を高め合い(5:11)」、「互いの間に平和を保ち」、「互いの間でいつも善を行う事」である。つまり、これらを実行することが、自分を聖く、尊く保つこととなり、異邦人のような汚れた行いをしないという事なのである。なぜなら、神様のみことばを受け入れ、信仰が与えられる事というのは、「主にならう者とされる」事だからである。それは、テサロニケ教会がパウロたちと主とにならう者となった、というのと同じである。このパウロの模範も本来彼自身ががキリストを模範として得たものであるから、パウロの模範を見たテサロニケ教会は主御自身の模範を見た、ということにもなる。

つまり、私たちが「聖い者となる」ことは、神様のみこころであり、神様御自身が「聖」であるが故に命じられている命令である。それゆえ、私たちは主イエスが再び来られるときに「聖く、責められるところのない者とされる」のは、キリストに似た者とされる事だ、と言えるのではないだろうか。d