Subject:
1テサロニケ人への手紙:「聖とされることについて」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/03/05 6:10
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

私たちが「聖く、責められるところのない者」とされるように、という祈りは1テサロニケで二度なされている。また、パウロのテサロニケ教会に対する命令にも「聖くあるように」というものが含まれている。そこで、パウロは「神のみこころ」は彼らが「聖くある」ことである、と言っている。では、「聖くある」とは具体的にどのような生き方をすることなのだろうか?なぜ、聖くあることが神のみこころなのか?

テサロニケ教会に福音が述べ伝えられる以前は、彼らは偶像に仕える者たちであった。しかし、パウロと他の使徒たちが苦難の中にあっても福音を述べ伝えたことによって、神に仕える者と変えられた。その福音とは言葉だけでなく、パウロたちの振る舞いでもあり、彼らの行いはテサロニケ教会への信仰の模範となった(1:5,
2:7, 10)。その振る舞いとは「敬虔で、正しく、責められることのないもの」であったということは2章10節にある通りである。

パウロが教会について、彼らが主の日に神の御前で「聖く、責められるところのない者となるように(3:11-13)」と祈るとともに聖なる歩みをするように、と命じていることからも分かるが、パウロがテサロニケ教会に示した模範とは、「主イエスが再び来られる日」の聖徒たちのあるべき姿なのである(3:11-13)。なぜなら、パウロが言っている通り、聖くなることは「神のみこころ(4:3)」であり、神様が聖徒たちを召された理由だからである(4:7)。

では、この手紙を通してパウロが命令(2:12, 4:1, 4:6, 4:10, 5:12,
5:14)している「聖い歩み」とはなんだろうか。それは、「互いに~」という言い方がされている箇所を取り出すだけでも明白になるものである。つまり、それは、「互いに愛し合い(4:12,
4:9)、慰め合い(4:18)、励まし合い(5:11)、徳を高め合い(5:11)」、「互いの間に平和を保ち(5:13)」、「互いの間でいつも善を行う事
(5:15)」である。これらを実行することが、パウロが命じているとおり自分を聖く、尊く保つこととなのである。パウロはこれらの事を自ら実行することによって、テサロニケ教会に模範を示し、それを見た彼らは神のみことばを受け入れて「主にならう者(1:6)」とされたのだ。なぜ、パウロの模範によって「主にならう者」とされるのか、というと、パウロもキリスト御自身を模範として福音を受け入れたのであるから、彼の模範を見たテサロニケ教会は、主御自身の模範を見た、ということになるからである。

つまり、私たちもこの命令を守るのならば、パウロがテサロニケ教会に対してそうであったように、他の人々に対して信者としての模範となり、キリストの福音がさらに広められていくことに繋がるのである。また、苦難の中にある時にこそ、この命令を守ることが試される。なぜなら、3章5節にも書かれているとおり、苦しみがあるときには、誘惑者の誘惑によって動揺する者があらわれたり、また、苦難があるのにもかかわらず「平和だ。」と言って気ままに歩むものが現れるからである。このような者たちは、パウロが命じている「聖い歩み」とは反対の事を行っている。それは、具体的に「神を知らない異邦人」の行いである「不品行、情欲、欺き、汚れ」だということが4章から分かる。これらの行いは、「聖」というキーワードと対比して書かれているものである。

当時のテサロニケ教会も主の日を待つ間の苦難の中にあった。しかし、パウロの励ましの言葉からも分かるように、そのような中にあっても、彼らは「聖い歩み」をするという命令を忠実に守って歩んでいたようだ(4:1,
5:11)。

私たちが「聖い者となる」ことは、神様のみこころであり、神様御自身が「聖」であるが故に命じられている命令だ、ということがこの手紙全体から明らかになる。また、この命令から、私たちが「聖なる者となる」ことは、キリストに似た者とされる事だ、と言えるのではないだろうか。それゆえ、私たちはパウロが命じている命令を守り「聖く、責められるところのない者」とされるに相応しい歩みをするべきである。これらの事をしてくださるのは神様御自身なのである(5:23)。