Subject:
テサロニケ人への手紙第二「自分の手で働く」
From:
Shinya Daniel Kanno
Date:
2010/03/11 11:33
To:
Saiwainet

「主の日に自分の手で働く」 菅野審也 2010.03.11

テサロニケ人への手紙の特徴とも言える「主の日」についての話の中で、パウロ
は締りのない歩み方をするのではなく、自分の手で働き、自分で得たパンを食べ
るように(3:11-12)と1章分もの長さを使って説明している。なぜ、パウロはここ
まで「主の日」にあって自分の手で仕事することを強調するのか。テ サロニケ
の教会にとって「主の日」とはどのような日なのか。

主の日とは、イエスがもう一度この世に来てくださり、正しいさばきを行ってく
ださる日であって、教会を苦しめる者たちに対しては、報いとして苦しみが与え
られ、主の名のために苦しみを受けている教会に対しては、報いとして安息が与
えられる日である。この日が来ること、主イエスが来られて、ご自分の生徒たち
によって栄光をお受けになることをを教会はずっと待ち望んでいた。しかし、テ
サロニケはその日がすでに来たかのようなその偽りにだまされ、心を騒がせ、落
ち着きを失ってしまっていた。そこで、テサロニケではその日にどのように歩む
べきかも教えられている。

主の日にどのように歩むべきかを考えるときに、多くの人はテサロニケ第一にあ
る「いつも喜びなさい。絶えず祈り なさい。すべての事について感謝しなさ
い。」というようないわゆるかっこうの良い言い方ばかりを思い出してしまうか
もしれない。しかし、この論文の導入でも述べたように、パウロは第二テサロニ
ケにおいては、それら以上に、「自分の手で働くこと」を非常に強調しているよ
うに考えられ、自分の手で働かないことによって、他の兄弟たちに負担をかける
ことになり、兄弟を助けてはいないということがこの教会の一番の大きな問題と
なっていた。では、自分の手で働くことの本当の意味は何なのだろうか。

この意味についてテサロニケ人への手紙からだけで理解するのは少しばかり難し
い。そのため、少しこの手紙から外に出て考えてみるとする。具体的なストー
リーだと、まずサムエル記第一2章に登場するエリの息子たちを連想する。この
息子たちは、礼拝する者たちが持ってきた主へのささげ物を横取りし、食べてい
た。なまけ者とは、ただ眠っているばかりいるような者のことではなく、まさに
エリの息子たちのようなよこしまな者のことである。また、マタイの福音書24章
や25章の主の日の預言の箇所を通してわかるように、その日には人のおせっかい
ばかりしているなまけ者を助ける暇はなく、他の逃げる者たちにとって大きな負
担となってしまう。

このように考えてきてみると、自分の手で働くとは、兄弟を助けることであり、
互いに愛し合うということの具体的な現れなのではないかということがわかる。
テサロニケの自分の手で働く姿、また互いに愛し合うその姿は、マケドニヤとア
カヤとにいる信者たちにとって模範となった。

-- Shinya Daniel@KannoFamily  mailto:+shinya@kanno.com :)