Subject:
ヤコブの手紙:「試練を通して完全な者とされる」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/03/19 9:18
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

- 導入

この手紙はヤコブが国外に散っている十二部族に対して書き送ったものである。手紙の始まりで、ヤコブが「試練」について言及している事からも分かるように、彼らは試練の中にいた。それゆえ、ヤコブは試練に対する対処についてこの手紙を通して教えている。では、ヤコブが教えている事とは具体的に何なのだろうか?

- 試練(3986)と誘惑(3985)

「試練 (Strongs: 3986)」という言葉自体は2回使われているのだが(1:2, 12)、原語を読むと日本語で「誘惑
(Strongs: 3985) (1:13, 14)」
と訳されている言葉もほとんど同じ意味である事が分かる。それゆえ1章2節の「試練に会う時には...」という言い方も、1章13節の「誘惑に会った時...」という言い方も、同じ時の事を指しているのだ。

- 「試練に会う時には...(1:2)」/ 「誘惑に会った時に...(1:13)」

1章2節で「試練に会う時には...」と教えられているのは、その試練に会う事を喜びと思う、ということである。なぜなら、試練に会う事により信仰が試される、それによって、忍耐が生じるからだ(1:3)。また、その忍耐は最終的に「完全な者」となることに繋がるのである(1:4)。では、1章13節では「誘惑に会った時に...」については何が書かれているのだろうか?その箇所でヤコブは「誘惑に会った時に、神によって誘惑された」と言ってはいけない、と教えている(1:13)。なぜなら、誘惑は人の欲によるものであるからである(1:14)。そのため、「だまされないように(1:16)」とヤコブは書き送っている。つまり、だまされない事という事は、試練の中で忍耐する事なのである。

- 忍耐と完全の関係

では、なぜヤコブは試練の中にある人々に対して、「だまされない事(1:16)」や「忍耐する事(1:3-4)」を教えているのだろうか?それは、その忍耐が「完全な者になる事(1:4)」につながり、だまされないことは「完全な賜物(1:17)」によるのだからである。ここまでの分析で「試練」というテーマに関連して、「忍耐(5278/1:12,
5:11, 5281/1:3, 4, 5:11)」と「完全(1:4, 17, 25,
3:2)」というキーワードもヤコブの手紙でポイントなっている、ということが分かる。では、これらのキーワードが出てくる箇所から、ヤコブが試練について何を教えているのかを引き続き分析してみる事とする。

- 忍耐(5278/1:12, 5:11, 5281/1:3, 4, 5:11)

ヤコブは5度「忍耐」、または、「耐え忍ぶ」という言葉を用いている。彼が、それらの箇所で試練の中で耐え忍ぶように、と命じているのであるが、その理由は非常に明白である。1章12節と5章11節で書かれているとおり、試練を耐え忍ぶものは「幸い」な人と呼ばれており、なぜなら、これらの試練は単に苦しみのために与えられているのではなく、耐え忍んで良しと認められた人は「いのちの冠」という祝福を約束されているからだ。

- ヨブの忍耐

このことについてヤコブはヨブを例えとしてあげ、具体的に解説している。ヨブは大きな病にかかったばかりでなく、その家族も財産もすべてなくなり、挙げ句の果てには友にも見放されるという試練にあった。しかし、最終的に神のあわれみによって彼の忍耐は幸いな結末をもたらした。このように、ヨブのような具体的なたとえを見るときに、「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
」という箇所についての理解が深まるのではないだろうか。ヨブは試練に会う前にすでに神様自らが「完全な者(潔白/08535)」と呼んでいた、その者が試練を耐え忍ぶことを通して、さらに完全な者となったのである。それゆえ、ヤコブは信仰の兄弟達に対し「苦難と忍耐については預言者たちを模範にしなさい(5:10)」と教えるときに、具体例としてヨブをあげたのである。

- 完全(1:4, 17, 25, 3:2)

ヤコブが書いているとおり、試練を耐え忍ぶ者は完全な者となる。ヤコブはそのような者について「何一つ欠けたところのない者」という表現も用いている。これは、1章2-8節にでてくる言い方なのだが、その文脈を見てみると完全な者の反対で「知恵の欠けた人」という者も登場することが分かる。では、ここで言われている「欠けている」、または、「欠けていない」ものとは何なのだろうか。それは、「知恵」である。ヤコブは1章5節からで、神様に知恵を「少しも疑わず信じて願うように」と兄弟達に教えている。なぜなら、知恵とは神様から与えられるものであり、求めるときに必ず与えられるからである。知恵の具体的な内容は3章17節に列挙されているとおり「純真、平和、寛容、温順、あわれみ、良い実、えこひいきがないもの、見せかけのないもの(ガラテヤ5:22)」である。つまり、完全な者とは知恵があり、3章17節に書かれていることを実行している者なのだ。

- 「愛する兄弟たち。」

このようにしてヤコブは、試練について国外に散っていた十二部族に、この手紙を通して教えたのであるが、その中で15回も「(愛する)兄弟たち。」という呼びかけを使っていることも興味深い。つまり、試練の中で耐え忍ぶ、という教えは個人的なものとして与えられているのではなく、兄弟達の間で実行されるべき教えとして与えられているのである。それゆえ、ヤコブは「互いに悪口を言ってはいけない」ということ、そして、「互いにつぶやきあってはいけない」という具体的な命令をしている。試練を通して完全な者とされるとき、それは、兄弟達の間にあっても大きな意味を持つものとなるのである。これらのことは、どの時代にも適用できる事であり、私たちもまたヤコブが十二部族に教えたように、試練を正しく事によって完全な者とされるのである。