Subject:
2テモテ:「神からの賜物:力と愛と慎みの霊」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/04/01 6:28
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

パウロがテモテに対して送ったこの手紙の中で、按手によってテモテに与えられた神の賜物が再び燃え立つように、と願っているのであるが、ここでパウロが言っているテモテの「神からの賜物」とは何を指しているのだろうか?

- 力と愛と慎みの霊

神から与えられたものとはなにかということは、次の節で明らかになる。それは、「力と愛と慎み霊」である。また、この霊は1章7節で「おくびょうの霊」というものと対比して書かれている。この「力と愛と慎み霊」こそが、パウロがテモテに言っている「神からの賜物」なのではないだろうか。1章を引き続き読むと分かるように、パウロは福音を述べ伝える事に関係して、この「霊」の話をしているのだが、どうやら、テモテが福音を述べ伝える事において「おくびょうの霊」が問題となってしまっていたようだ。それゆえ、パウロは福音を恥としてはいけない、と1章で3度も繰り返し教えている。

- 福音を恥とはしない

なぜ、福音について「恥」や「おくびょう」が問題となってしまったのだろうか。それは、福音を述べ伝える事には苦しみが伴うからである。パウロ自信も福音の為に苦しみを受け、この手紙を書いている時に鎖につながれていた。しかし、2章15節にも書かれている通り、福音に伴う苦しみの影響は、述べ伝えている人自身だけでなく周りの人々にもあった。そのため、福音を恥としてしまった、ノゲロとヘルモゲネという者たちは、パウロから離れていってしまったのである。4章10節で言及されている、デマスもクレケンスもテトスも同じようにパウロから離れていってしまった。しかし、パウロが1章16節に書いている通り、そのような者たちとは正反対で、パウロとともに福音の苦しみを受ける事を恥としなかったばかりか、パウロが牢に入れられている時にも熱心に仕えた人々もいた。それは、オネシポロとその家族である。離れて行ってしまった者たちは福音宣教において「おくびょうの霊」を持っていたのだが、パウロやオネシポロとその家族は「力と愛と慎みの霊」を持っていたのである。この手紙を送られているテモテも、3章10-11節で言われている通り、パウロが受けた迫害や苦難にもついていった、と書かれている。

- 福音における「力の霊」

パウロはテモテに対し、キリストの恵みによって強くなるように、と2章からの箇所で励ましている。つまり、「力と愛と慎みの霊」のうちの「力」とは、2テモテにおいては、キリストにあって強くなることを指しているのである。なぜなら、テモテはパウロと同じように福音を述べ伝える者として召され、それは、キリストの兵士として共に苦しみを受ける者とされた、ということだからである。パウロは3章12節でも、福音のための苦しみについて言及しており「キリストにあって敬虔に生きようと願う者は迫害される」と書いている。しかし、これらの苦しみは無意味なものではなく、それらを耐え忍ぶことによって、救いと栄光を受ける事を約束されている(2:10)。パウロ自身は4章の6節からに書いているように、その苦しみを耐え忍んだので、もはや義の栄冠を受けるだけになった、と言っている。

- 真理のみことば

では、苦しみの中にあっても、福音によって述べ伝えられていたものとは何なのか。それは、キリスト御自身であり、神の御言葉である。また、それは真理の御言葉である。しかし、この手紙が送られた時には、神の御言葉に反対し、真理に反する事を広めたり、真理を聞かなかったり、真理に逆らったり、という、反対する者たちが起こっており、それが福音に伴う苦しみの一つの原因となっていた事が分かる。つまり、この手紙で言われている、福音を述べ伝える事によって受ける苦しみとは、真理に反する者たちから受けるものであり、「かの日」、「終わりの日」、「困難な時代」、「空想話にそれて行く時代」にはますます問題が大きくなる、とパウロは注意を促している。そのために、パウロはテモテに福音を恥と思わず、キリストにあって強くあり、時が良くても悪くてもみことばを述べ伝えるように、と命じているのである。

...