Subject:
2テモテ:「神からの賜物:力と愛と慎みの霊」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/04/02 5:56
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

- 力と愛と慎みの霊

パウロはこの手紙をテモテに対して送り、按手によって彼に与えられた神の賜物が再び燃え立つように、と願った。その賜物とは続く1章7節に書かれている通り、「力と愛と慎みの霊」を指しているのだと思われる。では、これらのものはテモテにとってどのような意味があったのか?「力と愛と慎みの霊」とは具体的に何を意味しているのだろうか?

1章7節では「力と愛と慎み霊」が「おくびょうの霊」というものと対比して書かれている。1章を引き続き読むと分かるように、パウロは福音を述べ伝える事に関係して、この「霊」の話をしているのだが、どうやら、テモテが福音を述べ伝える事において「おくびょうの霊」が問題となってしまっていたようだ。それゆえ、パウロは福音を恥としてはいけない、と1章で3度も繰り返し教えている。

- 福音を恥とはしない

なぜ、福音について「恥」や「おくびょう」が問題となってしまったのだろうか。それは、福音を述べ伝える事には苦しみが伴うからである。パウロ自信も福音の為に苦しみを受け、この手紙を書いている時に鎖につながれていた。しかし、2章15節にも書かれている通り、福音に伴う苦しみの影響は、述べ伝えている人自身だけでなく周りの人々にもあった。そのため、福音を恥としてしまった、ノゲロとヘルモゲネという者たちは、パウロから離れていってしまったのである。4章10節で言及されている、デマスもクレケンスもテトスも同じようにパウロから離れていってしまった。しかし、パウロが1章16節に書いている通り、そのような者たちとは正反対で、パウロとともに福音の苦しみを受ける事を恥としなかったばかりか、パウロが牢に入れられている時にも熱心に仕えた人々もいた。それは、オネシポロとその家族である。離れて行ってしまった者たちは福音宣教において「おくびょうの霊」を持っていたのだが、パウロやオネシポロとその家族は「力と愛と慎みの霊」を持っていたのである。この手紙を送られているテモテも、3章10-11節で言われている通り、パウロが受けた迫害や苦難にもついていった、と書かれている。

- 福音における「力の霊」

パウロはテモテに対し、キリストの恵みによって強くなるように、と2章からの箇所で励ましている。つまり、「力と愛と慎みの霊」のうちの「力」とは、2テモテにおいては、キリストにあって強くなることを指しているのである。それは、4章17節に明白に書かれている。「力」とは神御自身から与えられるものであり、それは「力」が与えられた者を通して御言葉が述べ伝えられ、国の人々が御言葉を聞くようになるためである(4:17)。

キリストにあって強くされるようにとの励ましを受けているテモテは、パウロと同じように福音を述べ伝える者として召され、キリストの兵士として共に苦しみを受ける者とされたのである。パウロは3章12節でも、福音のための苦しみについて言及しており「キリストにあって敬虔に生きようと願う者は迫害される」と書いている。しかし、これらの苦しみは無意味なものではなく、それらを耐え忍ぶことによって、救いと栄光を受ける事を約束されている(2:10)。パウロ自身は4章の6節からに書いているように、その苦しみを耐え忍んだので、もはや義の栄冠を受けるだけになった、と言っている。

- 真理のみことば

では、苦しみの中にあっても、福音によって述べ伝えられていたものとは何なのか。それは、キリスト御自身であり、神の御言葉である。また、それは真理の御言葉とも呼ばれているものである。しかし、この手紙が送られた時には、神の御言葉に反対し、真理に反する事を広めたり、真理を聞かなかったり、真理に逆らったり、という、反対する者たちが起こっており、それが福音に伴う苦しみの一つの原因となっていた事が分かる。つまり、この手紙で言われている、福音を述べ伝える事によって受ける苦しみとは、真理に反する者たちから受けるものであり、「かの日」、「終わりの日」、「困難な時代」、「空想話にそれて行く時代」にはますます問題が大きくなる、とパウロは注意を促している。そのために、パウロはテモテに福音を恥と思わず、キリストにあって強くあり、時が良くても悪くてもみことばを述べ伝えるように、と命じているのである。

 - 愛

「力と愛と慎みの霊」と言われているのだが、この中の「愛」という言葉は4回使われており、そのうち3つの箇所において「信仰」という言葉も共にでてくる。しかし、興味深いのはテモテへの手紙には「間違った愛」についても書かれている、ということだ。前の段落でふれたような「真理に反する者たち」の愛がそれである。彼らの愛は信仰に伴うものではなく、3章2-4節に列挙されているとおり、「自分・金・快楽(3:2-4)・今の世(4:10)」である。それゆえ、パウロは終わりの日の困難の時代に、このような人々が現れることを警告している。彼らは福音の真理に逆らう者たちであり、みことばの健全な教えをせずに、空想話(4:4)や俗悪な無駄話(2:16)をして人々を惑わすからである。

しかし、聖書の真理を教えられた者たちは(3:14-17)、偽りの教えに惑わされるのではなく、義と信仰と愛と平和を追い求めるように、と教えられている。これらの4つのものは、3章2-4節で具体的に挙げられている、真理を知ることのできない者たちの行いの反対である。つまり、「力と愛と慎みの霊」という賜物を神様から与えられた者たちは、この霊をもって福音を述べ伝え、御言葉が人々の間に広まるように働くために召されたのである。

なぜなら、パウロもテモテもその働きのために宣教者や伝道者として召された。その働きを全うするために必要なのが「力と愛と慎みの霊」であり、パウロは自分がその福音の働きを果たしたので(「私は勇敢に戦い、走るべき道を走り終え…(4:5)」)、次にテモテにその務めを果たすようにと、この手紙を通して励まし、そして、命じているのである。