Subject:
ピレモン:「愛の手紙」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/04/23 8:58
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

- 信仰と愛がもたらした喜びと励まし

パウロはこの手紙をピレモンと彼の家の教会に対して書き送った。この手紙は、他のパウロの手紙に比べ短いのだが、パウロはなぜこれをピレモンに対して送ったのか?パウロがこれを通して教えようとした事は何なのだろうか?パウロはまずピレモンの信仰と愛についての彼の喜びと感謝について、4-7節の段落で書き、それらが、彼にどれほどの慰めを与えたのか、という事を書いている。この当時、パウロは投獄という苦しみを受けていた、ということが他の箇所からも分かるが、そのような状態にある時にこそ、ピレモンや他の兄弟たちがキリストのために熱心に働いている、という報告は彼の励ましとなったのである。

- パウロの愛による願い

この手紙の目的は8節からの箇所で明白になる。パウロはピレモンに対し、オネシモについてお願いするために、これを送ったのである。その願いとは、9節でのパウロの表現によると「愛による願い」だった。ではこの「愛の願い」とは何なのだろうか?それを分析するために、まず「愛」という言葉のピレモンへの手紙における位置付けを見てみよう。

- 愛する兄弟たちについて

「愛」という言葉はこの手紙の中で6回使われている。そのうちの3つは「愛する同労者ピレモン」や「愛する兄弟」等、人に関する文脈で使われている。それらの箇所から分かるのは、パウロが「愛による願い」をしている相手が、「パウロの愛する者」だという事である。また、その「パウロの愛する者」であったピレモンの「愛」も非常に大切であったことが4-7節で分かる。彼の愛はパウロにとって大きな喜び、感謝、そして慰めであり、パウロのみならず、他の兄弟たちも、テモテの愛と信仰によって力づけられたのである(1:7)。

- パウロの愛する子オネシモについての願い

パウロがこれを書くにあたって「愛の願い」の中心としているのは、彼が「わが子」と呼んでいるオネシモである。彼は、パウロが獄中で「生んだ」と言っていることからも分かるとおり、投獄されている時に救われたようだ。彼はパウロが「私の心そのものである(1:12)」と呼ぶほどの者であったのだが、はじめからそうであったのではない。パウロは彼が以前は「役に立たない者であった」とはっきりと言っている。1章16節によると、彼が「奴隷」でもあったようだ。しかし、オネシモは「役に立つ者」となり、奴隷から愛する兄弟へと変えられたので、パウロは投獄されている自分の代わりに、彼をピレモンと彼の教会の元に送ろうとしているのである。そこで、パウロは「愛によるお願い」として、オネシモを受け入れるようにと願っているのである。なぜなら、パウロが愛してわが子と呼んでいるオネシモを受け入れることは、パウロ自身を受け入れることでもあるからだ。それゆえ、彼は「私を迎えるように、彼を迎えてやってください(1:17)」とお願いした。

- パウロが求めている喜びと力

パウロがピレモンとその教会にお願いしていることがもう一つある。それは、彼らから「益を受けたい」ということである。日本語では「益」と訳されているこの言葉は、ギリシャ語で「喜び」という言葉であり、パウロは彼らによって元気づけられ、喜びを得たい、と願っているのである。その「喜び」とは4-7節に言及されているように、ピレモンと教会の「愛」である。パウロも聖徒たちも彼らの「愛」を通して、喜びに満たされ、力づけられたのである(1:7,
20)。

- ピレモンへの手紙における「愛」のテーマ

パウロの愛する同労者ピレモンへの手紙は、彼がピレモンとその教会が愛に満ちあふれていることを喜ぶ所から始まり、その愛に満ちあふれている彼らに対して、さらにパウロが愛によってお願いをしている。その願いとは、彼らがパウロの愛するオネシモを、愛する兄弟として受け入れることであり、パウロに対する愛のゆえにそれをするように、と願っている。これこそが、キリストにある兄弟愛の現れなのである。また、それの裏付けとして、非常に大事なポイントで忘れてはいけないのが、「ピレモン」という名前が「口づけ」するという意味で、ギリシャ語で「愛」という言葉の関連語である、ということだ。これらのことから、この手紙全体を通して「愛」というテーマが貫いているということがわかる。