Subject: ヘブル人への手紙「大祭司であるキリスト」 |
From: Shinya Daniel Kanno |
Date: 2010/04/30 10:04 |
To: Saiwainet |
「メルキゼデクの位に等しい祭司であるキリスト」 菅野審也 2010.04.30 「メルキゼデクの位に等しい祭司となられたキリスト」(5:6, 6:20, 7:17)。ヘ ブル人への手紙においてはこれは非常に大切なテーマの一つとして取り扱われて いる。その中で、この手紙の差出人が、何度も詩篇110篇からの引用を用いて、 このテーマについて話していることは、多くの人が知っていることだろう。で は、この手紙から教えられるメルキゼデクのような大祭司とはどのような者なの だろうか。また、大祭司としてのキリストとはどのようなお方なのだろうか。 ここで、まずはキリストとの対比でよく登場しているメルキゼデクについて考え てみることにする。「メルキゼデク」という名前自体は聖書全体に10回しか登場 しない、非常に珍しい名前であり(創世記、詩篇に各1回ずつ)、彼がどのよう な人物であったのか、またどのようなことを行った人物であったのかはあまり詳 しくは書かれていない。しかし、その数少ないうちの8回はこのヘブル人への手 紙に登場しており、この登場回数からしても、この手紙における「メルキゼデ ク」という名前の大切さは歴然としている。その不思議な人物であるメルキゼデ クについて、ヘブル人への手紙7章は、サレムの王であると同時に、いと高き神 の祭司であり、系図もなく、いのちの終りもない神の子に似た者とされた者で あったと教えている(7:1-3)。また、メルキゼデクが唯一ストーリーの中で登場 している創世記14章の戦いから帰ってきたアブラハムを出迎えたストーリーにつ いても詳しく説明されている。 この手紙では、これほどまでにメルキゼデクの位に等しいということが強調され ているわけだが、旧約時代の大祭司との間にはどのような違いがあったのだろうか。 今までの大祭司はみな、自分自身も弱さを身にまとっていたため、その弱さのた めに民の罪のためだけではなく、自分の罪のためにもいけにえをささげなければ ならなかった(5:1-3)。また、彼らがささげていた動物の血によって罪を完全に 贖うことはできず、毎日ささげられる必要があり(7:27)、大祭司ではあっても、 至聖所に入れるのは年に一度の決まった日だけ等という決まりがあった。 そこで、神の子であるキリスト(4:14)は私たちの罪を完全に贖うために、ご自身 が完全な大祭司としてこの世に来て下さったのである。そして、十字架上で流さ れた尊い血によって、ただ一度完全に贖いをされたのである。また、キリストは 他の大祭司とは違い、罪は犯されなかったが、私たちの弱さに同情できるお方で あった(4:15)。7章でのメルキゼデクの説明の中にもあった、アブラハムを出迎 えて祝福し、十分の一を受け取ったというのもこのことの具体的な現れではない かと考えられる。ここに、今までの大祭司とは大きく異なる点がある。 このように、キリストはあわれみ深い、忠実な大祭司として(2:17)、私たちをご 自分の義(7:2)、そしてご自分の平和(7:2)にふさわしい神の家、さらにはご自分 の兄弟としてくださったのである()。これこそが、メルキゼデクの位に等しい大 祭司となられたキリストであると言えるのではないだろうか。最後に、王である キリストについて教えられているローマ人への手紙とのつながりで考えることに よって、さらに大祭司であるキリストについての理解が深まるのではないだろう かと考える。-- Shinya Daniel@KannoFamily mailto:+shinya@kanno.com :)