Subject:
ヘブル人への手紙「神の安息」
From:
Shinya Daniel Kanno
Date:
2010/05/20 11:30
To:
Saiwainet

「残された神の安息にはいるための約束」 菅野審也 2010.05.20

ヘブル人への手紙3章と4章では、詩篇95篇7-11節からの引用を通して「私たちに
はまだ神の安息にはいるための約束がまだ残っている」ということについて教え
られている。では、私たちに残されている安息とはどのようなものなのか。ま
た、なぜ、荒野のイスラエルは神の安息へと入らせていただけなくなったのだろ
うか。

3:1-4:13は全体における真ん中の四つの段落のうちの一つで、8:1-10:18の大祭
司の段落と並行して、特に都について教えられている段落である。その中で、著
者は何度も詩篇95篇を引用しているわけだが、その引用されている内容とは、
「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたと
きのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこで
わたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたし
はその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。
わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせな
い。」ということである(詩篇95:7-11, ヘブル3:7-11)。この話はもともと荒
野でのイスラエルの事件を指すものであるが、その元となっているストーリーと
はどのようなものであったのだろうか。

荒野でのイスラエルの事件とは具体的には、不信仰のゆえに、荒野で水を求めて
つぶやき、主に逆らったというストーリーのことである(出エジプト記17章7
節)。彼らは出エジプトの偉大なみわざを直前に見ていながら、その直後には水
と食べるものがないために、モーセとアロンを通して主に逆らい、主と争い、さ
らには、「主は私たちのうちにおられるのか、おられないのか」とまで言って主
を試みた。そこで、主は彼らをさばき、目に見える安息とも言えるだろう、その
約束の地カナンへと入ることをお許しにならなかった。そのようなストーリーの
中で、このヘブル人への手紙の箇所とも関係のある興味深いことが一つある。そ
れは、この事件において、イスラエルは水だけでなく、肉を食べたいとも訴えて
いたわけだが、神様は彼らのつぶやきを聞いてくださり、彼らに天からのパンを
降らせ、彼らを満ち足らわせて下さった。その時、神様は彼らに「次の日は主の
安息であるため、二日分のパンをそれぞれ集めるように」という命令をされた。
なぜなら、主が創造の七日目に休まれたように、彼らにも安息を与えてくださっ
たからである(出エジプト記16章29節)。

実は、ヘブル人への手紙においても、神様が七日目に創造のわざを休まれたとい
うことについて話されている。この手紙の著者は、この創造のわざを休まれたこ
とと、95篇との二つの箇所を通して、私たちにはまだ安息が残されていることを
説明している。

そのようなわけで、私たちには、神がご自分のわざを休まれたように、私たちも
また同じ安息に入るようにということが求められており、励まされているのであ
る。そのためには、まず御声を聞くことが求められているのである。荒野でのイ
スラエルは福音を聞いていながら、それに従わず、神の安息へと入らせていただ
けなくなったのである。そこで、私たちは「きょう。」と言われている間に、イ
スラエルの不従順の例にならって落後する者がひとりもいないように、日々互い
に励まし合い、この安息にはいるよう力を尽くして努めるのである(3:13, 4:
11)。私たちにとって神の安息とは、まさにキリストにあずかる者となることで
あり、さらには持ち続けた確信と希望による誇りとのゆえに神の家となることで
ある(3:6, 3:14)。

-- Shinya Daniel@KannoFamily  mailto:+shinya@kanno.com :)