Subject: ヘブル人への手紙「神の安息」2010.05.21 |
From: Shinya Daniel Kanno |
Date: 2010/05/21 14:19 |
To: Saiwainet |
「残された神の安息にはいるための約束」 菅野審也 2010.05.21 ヘブル人への手紙3章と4章では、詩篇95篇7-11節からの引用を通して「私たちに はまだ神の安息にはいるための約束がまだ残っている」ということについて教え られている。では、私たちに残されている安息とはどのようなものなのか。ま た、なぜ、荒野のイスラエルは神の安息へと入らせていただけなくなったのだろ うか。 3:1-4:13は全体における真ん中の四つの段落のうちの一つで、8:1-10:18の大祭 司の段落と並行して、特に都について教えられている段落である。その中で、著 者は何度も詩篇95篇を引用しているわけだが、その引用されている内容とは、 「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたと きのように、心をかたくなにしてはならない。…わたしは、怒りをもって誓った ように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」ということである(詩篇 95:7-11, ヘブル3:7-11)。95篇の出だしだけを読むだけでは、この話が出てく るとは誰も想像つかないだろう。しかし、7節からの新しい段落の最初の言い方 である「きょう、もし御声を聞くなら」という言い方について考えるときには、 前の段落との関係がはっきりとしている。すなわち、私たちは主の牧場の羊とし て御声を聞くことが求められており、私たちの救いの岩に向かって喜び叫ぶよう にということが命令されている。 この話はもともとはイスラエルの荒野での事件を指しているわけだが(出エジプ ト記16-17章)、この事件においてイスラエルは、主の御声に聞き従わず、出エジ プトのみわざを見ておりながら、直後には水やパンのために、「主は私たちのう ちにおられるのか、おられないのか」とまで言って、主を試みたのである(出エ ジプト記17:7)。そこで、神は彼らをさばき、目に見える安息とも言える、約束 の地カナンへと入ることをお許しにならなかった。彼らはみなその不信仰のゆえ に荒野でさばかれて、死んだのである。この事件においても実際に安息について 話されており、神はイスラエルに天からパンを降らせて下さった時に、彼らに 「次の日は主の安息であるため、二日分のパンをそれぞれ集めるように」という 命令を与えられた(出エジプト記)。このことからも、安息との関係が非常にあき らかである。 ヘブル人への手紙において、安息について話すにあたっても、同じように、神が 七日目に創造のわざを休まれたという、神の安息について話されている(4:3- 4)。さらに、この手紙の著者は、この話と95篇とを用いて、私たちにはまだ神の 安息にはいるための約束は残されているので、神の安息にはいろうではないかと 呼びかけている(4:6)。神はこの手紙を通して、イスラエルの不信仰の話を用い て、また95篇から、私たちが同じように不信仰な者とならないようにと教えてお られるのである。 そのようなわけで、私たちは主の牧場の民、御手の羊である者として(詩篇95: 7)、永遠の契約の血によって羊の大牧者とされた方である御声に聞き従うことが 求められている。また、「きょう。」と言われている間に、御声に聞き従い、イ スラエルの不従順の例にならって落語する者がひとりもいないように、日々互い に励まし合い、神の安息へ入るようにと励まされているのである(3:13, 4:11)。 私たちにとって、キリストにあずかる者となること、また、持ち続けた確信と希 望による誇りとによって神の家になることこそが、神の安息であり(3:6, 3: 14)、神は何よりも御声に聞き従うことを私たちの安息としてくださるのである。-- Shinya Daniel@KannoFamily mailto:+shinya@kanno.com :)