Subject:
ヘブル:「~しようではありませんか」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/05/27 6:41
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

パウロはヘブル人に対して書き送ったこの手紙において「~しようではありませんか(4:1, 11, 14, 16, 6:1, 10:22-24,
12:1, 12:28, 13:13,
15)」という言い方を多用し、人々を励ました。この言い方は12回も使われていることからも、これはこの手紙の一つの特徴だと言って良いだろう。では、パウロはこの手紙を通して「なにをするように」と人々を励ましたのだろうか?

~しようではありませんか

「~しようではありませんか」という言い方が初めて使われているのは、神の安息に入ることに関して書かれている4章1節である。4章11節も同じく、安息についての段落でこの言い方が使われているのだが、安息に関してパウロはなにを命じたのだろうか?それを知るためには、まず「安息」が何を指すものなのかを知る必要がある。そこで、この言葉が使われている段落を分析してみると、パウロが言っている「安息」とは二つの事を指していることがわかる。一つは、モーセの時代の事(3:16-19)、そして、もう一つは私たちがこれから入ると約束されている安息のことである(4:1)。

だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
- ヘブル人への手紙4:1

安息に入ることができなかった人々

モーセの時代のイスラエルの民は御声を聞かず、罪を犯したために、御怒りを引き起こし(3:16-17)、その不信仰のために安息にはいることを赦されなかった。彼らは自分の悪い行いのために、約束されていた安息を自ら捨ててしまったのである。そこで、パウロは彼らの二の舞になることがないように、と私たちに教えているのである。それゆえ、パウロは約束が残されている今、信仰を守り、神から離れることなく、信仰の先祖達の模範に習った歩みをするように(11:1-40)、と人々を励ましている。

このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。
- ヘブル人への手紙3:19

迫害における信仰の戦い

この手紙が書かれてた時には、3章12節の「悪い不信仰の心になって…神から離れる者」や4章11節「落後する者」、そして、6章4-6節の「堕落してしまう人」等、安息にはいるために信仰を守り通す、ということができなかった人たちもいて問題となっていたようだ。それゆえ、パウロは人々が望みをもって約束されたものを受け取ることができるように(5:11,
6:18-19)、と人々を教えているのである。このような人々が起こってしまった原因の一つは、彼らが、福音を述べ伝える働きをするにあたって、迫害をされたり、苦難にあっていたということにある、と思われる(11:32-39)。

しかし、パウロはそのような時こそ、喜びに満たされてその苦しみを耐え忍ぶように(10:34)、と書き送っている。それは、彼ら自身が以前迫害されたときにそうであったからである(10:32-39)。また、彼らだけでなく、信仰の先祖達はみな、そのようにして、苦しみを耐え忍び、約束されたもののために戦い抜いたのである。その模範については11章に、10人の信仰者たちのストーリーを通して語られている。これらのことから「~しようではありませんか」という言い方で命じられていることの一つが、約束された安息に入るために、戦いを耐え忍び(12:1)、信仰を保つ事だと分かる。

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか...
- ヘブル人への手紙12:1

神に近づくこと

では、他にはなにが命じられているのだろうか?「神に近づこうではありませんか(4:16,
10:23)」という言い方がこの手紙には2回出てくる。これは何を指している命令なのだろうか?前後の段落を分析してみると、「神に近づく」というのが新しい時代の命令である、ということが分かる。なぜなら、古い時代には大祭司が年に一度至聖所に入ることを赦されていただけで(9:7)、民は神に近づくことを赦されていなかった。なぜなら、罪の贖いが完成されていなかったからである。それゆえ、大祭司でさえ限られたときのみ神に近づくことが赦されたのである。しかし、キリストの完全な罪の贖いによって、罪人である私たちも「大胆に恵みの御座に近づくこと(4:16,
10:19)」ができるようになったのである。人類は罪によって汚れた者であったのに、キリストの血によって洗われ(9:12)、信仰をもってみもとに行くことができるのだ(13:13)。

賛美のささげものを捧げることを赦された人々

「神に近づいて」私たちは何をするのだろうか?古い時代において大祭司たちは、罪のためのささげもののために至聖所に入っていた(9:1-10)。また、祭司達も日々完成されることのない贖いのために(10:25-11:4)、聖所での働きをしていた。しかし、贖いが完成された今、私たちは新しい聖所において、賛美のいけにえをささげるのである(13:15)。これが、キリストの贖いを通して私たちに与えられた恵みであり、その恵みから落ちることがないように、とパウロはこの手紙を送ることを通して人々を励ましたのである(12:15)。