Subject:
ヘブル人への手紙「信仰による確信」
From:
Shinya Daniel Kanno
Date:
2010/05/27 7:36
To:
Saiwainet

「信仰によって約束のものを得る」 菅野審也 2010.05.27

ヘブル人への手紙と聞くときに、11章の「信仰によって、~は…」という言い方
を思い出す人は少なくないだろう。その連想の通り、この手紙では「信仰」とい
うことばは11章の言い方もすべて含めて35回も使われており、ローマ人への手紙
の38回に次いで二番目に多く使われている手紙である。では、私たちはヘブル人
への手紙から信仰について何を教えられるのか。また、11章の「信仰によって」
という話の位置づけは何なのだろうか。

11章では、ノア、アブラハム、モーセ等、16人もの名前があげられており、彼ら
の信仰の歩みについて具体的に話されているわけだが、なぜ、わざわざ先祖たち
がどのように歩んできたのかが話されているのか、その意味を考えるにあたっ
て、一つ重要になる言い方がある。それは、「これらの人々はみな、約束のもの
を手にいれることはできませんでした。」(11:13, 11:39)という言い方である。
これらの人々とは先祖たちのことであり、彼らはみな神に対する信仰とさらには
忍耐とを持って、約束のものを求めて、戦ってきたわけだが、その生涯の終りに
彼らは神から約束のものを受けることはできなかったというわけである。彼らが
約束のものを受けることができなかったのは、不信仰のためであったというわけ
では全くない。確かに、荒野でのイスラエルは不信仰のためにさばきを受けるこ
ととなり、カナンの地に入らせていただけるという神との約束を果たすことはで
きなかった(3:19)。しかし、11章で話されている先祖たちは、かえって、その信
仰によって称賛され(11:2)、あかしされたのであり(11:39)、信仰の戦いの真っ
只中にある私たちに励ましを与えているのである。

そこで、私たちは命じられているとおり、彼らの信仰にならって歩まなければな
らない。では、私たちがこれらの先祖たちと同じように、前に置かれている競争
を忍耐をもって走り続けるためには、どのような信仰を持たなければならないの
だろうか。私たちの持つべき信仰とは、すなわち、この世界が神のことばで造ら
れたことを悟り、見えるものが目に見えるものからできたものではないことを悟
ることであって(11:3)、一言でまとめるならば、神はご自分を求める者には報い
てくださる方であることとを信じるということである(11:6)。私たちはこの信仰
とを持って、約束のものを手に入れるために、正しい行いに励むわけだが、その
約束のものとは、天の故郷、さらにすぐれた故郷であるとこの手紙は教えている
(11:16)。これが、先祖たちが追い求めてきたものであり、今私たちも求め続け
ているものである。

そのようなわけで、私たちは、信仰と忍耐とをもって、この約束のために、日々
神のみこころを行い、強い者となって、戦いの勇士となるようにという励ましを
受けているのであって(10:36, 12:34)、そのために、まず私たちが信仰の創始者
であり、さらには完成者であられるイエスに目を留めるようにという命令に聞き
従うならば(12:2)、神は私たちをご自分の家とし(3:6)、私たちのうちに、天の
都を据えてくださるのである。

-- Shinya Daniel@KannoFamily  mailto:+shinya@kanno.com :)