Subject:
1ペテロ:「信仰の試練における喜び」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/06/25 6:19
To:
saiwainet

ペテロが書いたこの手紙は、迫害の時代に散らされていた神様の民に対して送られたものである。この時代に、神様を信じる人々は神の福音のために迫害されていた。しかし、このような信仰の試練の中にあっても、喜びに満ちあふれていた。では、彼らはなぜ苦しみの中でも望みを保つことができたのか?苦しみの中での彼らの喜びは何だったのだろうか?

彼らは信仰の試練にあっていた。そのような苦難の中にあっても、彼らは望みを捨てなかった。その望みとは、後に与えられる栄光であり、救いの約束である。彼らがどのような時にでも、それを信じ続けたのは、彼らの述べ伝えているキリストご自身がそうであったからである。キリストは罪人のために死んでくださり、十字架で苦しみを受けられたが、よみがえられ栄光を受けられたのである。それゆえ、同じように、この世にあって苦しみを受けているキリスト者にも、救いの約束、また、栄光の約束がされているのである。

それゆえ、ペテロはこの手紙を書き送った相手に対し、苦しみを耐え忍ぶように教えるとともに、むしろ、キリストの苦しみに預かれることを喜ぶように、と励ましている。なぜなら、善を行って苦しみを受け、耐え忍ぶとき、神様ご自身も喜んでくださるからである。また、ペテロはそのような者たちが幸いである、ということも言っている。3章14節では「義のために苦しみ事」が幸いであり、4章14節では「キリストの名のために非難を受ける事」が幸いである、とペテロは書き送った。これはまさにキリストご自身が山上の説教で教えてくださったことである。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。ペテロの手紙が送られた人々たちも、義のために迫害されていた。ペテロは手紙の中で、罪を犯したために苦しみを受けても、それは当然のことであり、何の誉れでもないが、善を行って苦しみを受けるのならば、それは、神様に喜ばれることである、と言っている。キリストも御自分は罪のない者であり、全く完全な者であるのにも関わらず、私たち罪人のために苦しみを受け、贖いを成し遂げてくださったのである。

「喜びなさい。喜びおどりなさい。」これも、キリストが山上の説教で、迫害されている者たちに対して命じられたことである。では、ペテロで教えられている、迫害の中で喜ぶと実際にどのようなことなのか?それは、後に与えられる栄光を信じ、兄弟達が互いに愛し合うことである。