Subject:
ローマ:「義人はいない。ひとりもいない。」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/08/28 7:55
To:
saiwainet

「義人はいない。ひとりもいない。」

「義人はいない。ひとりもいない。」パウロは詩篇14篇と53篇から引用し、人の罪について説明した。彼は、義と認められることについて説くために、不義についても書いたのである。では、特に3-4章の段落でパウロが説明している義、そして、不義とは何だろうか?キリストの十字架による贖いによって「義人はいない。ひとりもいない。」という状況はどのように変わったのだろうか?

3-4章で明らかにされている神の義とは

3-4章で私たちに明らかにされている、神様の義とは何か?3章21節からの段落によると、それは、律法預言者を通して私たちにあかしされ、示されたものである。神の義は、イエス・キリストを信じる信仰によるものであり、すべての信じる人に与えられるのだ。なぜ、「すべての人」という点が強調されているかと言うと、この時「ユダヤ人と異邦人」に関することが問題となっていたからだ。それゆえ、パウロは神の義が信じる人すべての人に与えられると言ったのである。

なぜ罪人に神の義が表されたのか?

しかし、「義人はいない。ひとりもいない。」と言われているとおり、すべての人は罪人ではなかったのか?ユダヤ人であれ、異邦人であれ関係なく、全ての者は律法によって罪に定められたのではなかったのか?なぜ、そのような人々に神様は義を表してくださるのだろうか?確かにすべての者はアダムが罪を犯したことにより、罪の下にある者とされた。しかし、神の恵みにより、キリストが御自身の血をもって贖ってくださったことにより、不義の下にあった人々は救われ、その救いを信じる者には、キリストが義を表してくださったのである。

神の義とは何か?

では「神の義」とは何か?それは、キリスト御自身である。つまり、キリストは義である御自身を表すために、贖ってくださったのである。それは同時に、キリストを信じる者を義と認めてくださるということでもある。義なるキリストを信じるならば、義と認められるのである。罪人であった私たちも、その恵みによってその贖いに預かる者とされた。つまり、罪の故に不義の下にあった私たちは「義人」とされたということである。

信じることによって義と認められる

アダムが善悪の知識の木からとって食べ、神様の命令を破ったことによって、この世界に罪が入り「義人はいない。ひとりもいない。」という状態になった。しかし、神の恵みにより、神を信じる者には神の義が約束されたのである。律法を守り行うことによってではなく、信仰によって義と認められるのである。それゆえ、割礼を受けていない異邦人たちにも、神の義は表されているということである。なぜなら、パウロが書いたとおり、「神はユダヤ人だけの神」ではなく「異邦人にとっても、神」だからである(3:29)。

不義とは何か?

この時、問題となっていた割礼や律法も、古い時代にそうであったように、人を完全に救い出すものではない。ただ、神様を信じるということによってのみ、義と認められるのである。それもすべて、キリストの恵みによるのである。主イエスは私たちのために罪に渡され、私たちが義と認められるためによみがえられたのだからである(4:25)。それまでは、3章10-18節に具体的に列挙されているような罪の下にあった。その罪とは、欺きや呪い、血を流すのに速い足等、すべては神を恐れない心から来るものである。これらは、アダムの時代から大きな問題となっていたものである。アダムとエバを誘惑したサタンの偽り、また、罪を犯したあとの三人の欺き、また、弟アベルを殺したカインの血を流すのに速い足等である。彼らは主を恐れなかったために、罪を犯してしまったのである。

十字架による完全な赦し

しかし、そのような罪もすべて、キリストの十字架を通して完全に赦され、不義であったものは、その信仰によって「義」とされることとなったのだ。このようにして、神の一方的な恵みにより「義人はいない。ひとりもいない。」という状態は変えられたのである。