Subject:
ローマ人への手紙「兄弟愛」
From:
Shinya Kanno
Date:
2010/09/01 14:15
To:
saiwainet

「兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい」 菅野審也 2010.09.01

ローマ人への手紙12-16章の段落において、パウロは、「互いに」ということばを10回、そして「愛」ということばを17回ほど使い、互いに愛し合うことについて、すなわち兄弟愛について教えている。また、この段落には、「誰に対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」というパウロの命令もはっきりとある(13:8)。では、パウロがローマ人への手紙を通して教えている兄弟愛とは何なのか。互いに愛し合うこととして教えられている具体的な行動とは何なのだろうか。

パウロは、12章からの段落において兄弟愛について教えるにあたって、まず最初に5章と8章の段落で、なぜ私たちが互いに愛し合わなければならないのか、その前提となることについて教えている。すなわち、私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、私たちに対するご自身の愛を明らかにしてくださったというこである(5:8)。私たちが互いに愛し合わなければならない理由、それはもともとは神の私たちに対する愛にあるということである。この愛は、私たちが罪人であった時のみならず、今も私たちに与えられた聖霊によって大いに注がれているのである(5:5)。パウロはこの教えに加え、さらに、かの有名な8章の「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。」という修辞疑問文を含む段落においても、神の愛について説明している。ここで、パウロが何よりも強調していることは、神が私たちの味方であるなら、私たちを神の愛から離すことのできるものは何もないということである。なぜなら、私たちには私たちを愛してくださった方によってどのような状態の中にあっても、圧倒的な勝利者となるということが約束されているからである。

このようなわけで、私たちは勝利を約束された者として、それにふさわしい歩み方をすることが求められている。そのふさわしい歩みとが、「互いに愛し合う」ことである。そこで、パウロが互いに愛し合うことの具体的な行動の一つとして挙げていることは、キリストが神の栄光のために私たちを受け入れてくださったように、私たちも互いに受け入れるということである(15:7)。その中で、特に強調されていることは、信仰の弱い人を受け入れ、彼らが食べ物のことで絶対につまずくことがないようにということである(14:1)。パウロは、食べ物のことで神のみわざが破壊されることがあってはならないと強く注意を与えており(14:20)、ただ、互いの霊的成長に役立つことを追い求めるようにと命じている(14:19)。さらに、パウロは、だれも思うべき限度を越えて思い上がることをせず、それぞれが神に分け与えられた信仰の量りに応じて働くようにとも、自分に与えられた恵みによってひとりひとりに命じている
(12:3)。これは小さいことのように見えて、非常に大切なことである。なぜなら、思うべき限度を越える行動とは、みな互いに一つ心になろうとしない、高ぶった思いから発生するのであって、これがパウロが注意している偽りの愛である。最後に、パウロは非常に具体的な行動として、ローマにいる兄弟たちに直接会うことを強く望んでいる(1:10,
15:29, 15:32)。この願いは、ローマ人への手紙に限らず、他の手紙においてもパウロがずっと望んでいることである。その強い願いの現れとも言えるかのように、パウロは1章分もの長さを使って、多くの兄弟たちに、具体的な名前を挙げて、よろしくと伝えている。

このようなわけで、パウロは、争いやねたみの生活など、やみのわざが流行るこの時代にあって、兄弟を互いに愛することによって、律法を全うするようにと励まし、勧めている
(13:9-10)。これこそが、この時代にあって、彼らが行わなければならない善であり、悪に打ち勝つための正しい行動である。また、これは、12章の出だしのパウロの命令にも応える形にもなっている。その命令とは、自分たちのからだを神に受けいられる、生きた供え物としてささげるように、さらに、神のみこころは何かを求め、心の一新によって自分を変えるようにということであった(12:1-2)。互いに愛し合うこと、これはすなわち、神のみこころなのである。

-- Shinya Daniel@KannoFamily mailto:+shinya@kanno.com :)