Subject:
ローマ:「信仰の父アブラハム」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/09/01 17:03
To:
saiwainet

アブラハム、彼はテラの子で創世記に登場する旧約時代の人物である。彼は旧約時代に生きた人物であるにも関わらず、その名前は新約聖書で69という非常に多くの箇所で言及されている。中でも、ローマ人への手紙では彼について多くのことが書かれていると言えるであろう。では、ローマはもちろん、他の箇所も含めて、アブラハムについて新約聖書では何と書かれているのか、彼の新約時代における位置づけとはなにか探ってみることとする。

ローマ書においてアブラハムについては、特に4章において取り扱われている。4章を読むと非常に明白な通り、義と認められることについての話の中でアブラハムが登場する。彼は「信仰によって義と認められた者」の例としてあげられているのである。なぜなら、この手紙が書かれたときに、「信仰による義認」と「行いによる義認」が問題となっていたからだ。そこで、パウロはアブラハムという私たちの先祖を例えに出し、義と認められる事が信仰によってのみであることを明白にしたのである。

4章1節で言われているとおり「私たちの先祖」であるアブラハムが行いによって義と認められたのならば、その子孫である私たちもそうだということになる。しかし、ユダヤ人でもヘブル人でもない私たちがなぜ「アブラハムの子孫」なのだろうか。それは、9章4-8節に書かれている通り、私たちは肉においてはアブラハムの子孫ではないが、キリストの十字架によるあ贖いという約束の成就を通して「子」とされたのだ。つまり、アブラハムは私たちの信仰の父であるという言い方をしても良いだろう。

アブラハムは信仰によって義と認められた。それゆえ、神様を信じ義と認められた私たちは彼の子となったのである。それゆえ、割礼を受けた者だけがアブラハムの子と呼ばれるのではなく、アブラハムは義と認められるすべての人の父となったのである。なぜなら、それがアブラハムに与えられた約束の成就だからである。神様を信じる者はすべて世界の相続人となるという約束、それが、アブラハムとその子孫に与えられた恵みなのである。律法によるのでもなく、行いによるのでもない。ただ信じることによってのみ、その約束にいれられるのである。

しかし、アブラハムにこの「世界の相続人」についての約束が与えられたとき、神様は「子孫」を約束してくださったにも関わらず、彼と彼の妻が年をとってからも子供は与えられなかった。「あらゆる国の人々の父(4:18)」と言われた者に一人も子供がいなかったのだ。しかし、アブラハムはその約束を疑うばかりか、その信仰はますます強くなり、その約束が果たされることを信じていた。この信仰が彼の義と見なされたのである。これが、義と認められるための信仰の模範である。