Subject:
ローマ:「新約時代におけるアブラハム」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/09/02 22:27
To:
saiwainet

新約時代におけるアブラハムの位置づけ

アブラハム、彼はテラの子で創世記に登場する旧約時代の人物である。彼は旧約時代に生きた人物であるにも関わらず、その名前は新約聖書で69という非常に多くの箇所で言及されている。中でも、ローマ人への手紙には彼について多くのことが書かれていると言えるであろう。では、ローマはもちろん、他の箇所も含めて、アブラハムについて新約聖書では何と書かれているのか、彼の新約時代における位置づけとはなにか探ってみることとする。

信仰によって義と認められたアブラハム

ローマ書においてアブラハムについては、特に4章において取り扱われている。4章を読むと非常に明白な通り、義と認められることについての話の中でアブラハムが登場する。彼は「信仰によって義と認められた者」の例としてあげられているのである。なぜなら、この手紙が書かれたときに、「信仰による義認」と「行いによる義認」が問題となっていたからだ。というのは、割礼を受けたユダヤ人にも、無割礼のギリシャ人など異邦人にも、信じる人には全て福音が与えられているということを、パウロはこの手紙を通して書き送る必要があったからだ。そこで、パウロはアブラハムという私たちの先祖を例えに出し、義と認められる事が信仰によってのみであることを明白にしたのである。

私たちの先祖アブラハム

4章1節で言われているとおり「私たちの先祖」であるアブラハムが行いによって義と認められたのならば、その子孫である私たちもそうだということになる。しかし、ユダヤ人でもヘブル人でもない私たちがなぜ「アブラハムの子孫」なのだろうか。それは、9章4-8節に書かれている通り、私たちは肉においてはアブラハムの子孫ではないが、キリストの十字架による贖いという約束の成就を通して「子」とされたのだ。それゆえ、アブラハムは私たちの信仰の父であるという言い方をしても良いだろう。アブラハムの子と呼ばれるのは、血縁によるのではなく、信仰によるのだからである。

なぜアブラハムの子と呼ばれるのか?

アブラハムは信仰によって義と認められた。それゆえ、神様を信じ義と認められた私たちも彼の子となったのである。それゆえ、割礼を受けた者だけがアブラハムの子と呼ばれるのではなく、アブラハムは義と認められるすべての人の父となったのである。なぜなら、それがアブラハムに与えられた約束の成就だからである。神様を信じる者はすべて世界の相続人となるという約束、それが、アブラハムとその子孫に与えられた恵みなのである。律法によるのでもなく、行いによるのでもない。ただ信じることによってのみ、その約束にいれられるのである。

世界の相続人についての約束

しかし、アブラハムにこの「世界の相続人」についての約束が与えられたとき、神様は「子孫」を約束してくださったにも関わらず、彼と彼の妻が年をとってからも子供は与えられなかった。「あらゆる国の人々の父(4:18)」と言われた者に一人も子供がいなかったのだ。しかし、アブラハムはその約束を疑うばかりか、その信仰はますます強くなり、その約束が果たされることを信じていた。この信仰が彼の義と見なされたのである。また、これこそが、義と認められるための信仰の模範でもある。

信仰の父と信仰の子

アブラハムは「信仰の父」というその呼び名の通り、私たちの信仰の模範となっているのである。アブラハムは神を信じ、それが神の義とみなされた、と書かれているのは、そのためである。彼のためだけでなく、私たちのためでもあるのだ。なぜなら、神を信じる私たちの信仰も義と認められるからである。そのために、キリストは死んでよみがえってくださったのである。