Subject:
ローマ人への手紙「神の正しいさばき」
From:
Shinya Kanno
Date:
2010/09/08 13:38
To:
saiwainet

「神のさばきは何と知り尽くしがたいことでしょう。」 菅野審也 2010.09.08

ローマ人への手紙1章には、多くの人が知っている有名な箇所がある。それは、主を恐れず、心の欲望のままに自分を支配させている人に対する神の怒りについて説明されている、「不義をもって真理をはばんでいる人々に対して、神の怒りが天から啓示されています。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。...彼らに弁解の余地はないのです。」という箇所である(1:18-23)。この箇所からも明らかにされているように、神のさばきは常に正しいのであって、公平である。では、パウロがローマ人への手紙を通して教えている「神の正しいさばき」とはどのようなものなのだろうか。

パウロは、心の欲望とのゆえに自分たちの身に自らさばきを招いている者たちに対して、神のさばきがどのようなものであるかを教えるにあたって、他人をさばく者たちを取り扱っている(2:1)。彼らはみな他人をさばいていながら、かえってそれによって自分たちを罪に定めており、その人たちにしてはならないと注意していたことと同じようなことを結局は自分たちで行っている。彼らは神の正しいさばきを知っていながらこのように行い、自分たちだけが神のさばきから免れようとしているのである(2:2-3)。具体的な彼らの行いとは、人を教えながら、自分は教えず、盗むなと説きながら自分では盗み、姦淫するなと言いながら、自分では姦淫をしているというようなことである。これらのような行動はまさに、福音書において、律法学者やパリサイ人、または偽善者と呼ばれる者たちがイエスに偽善な行いとして取り扱われている行動である。「神の名は、彼らのゆえに異邦人の中で汚されている。」というイザヤのことばの通り、彼らの行っているさばきとのゆえに、かえって神の名が侮られているのである(2:19-24)。また、パウロはこのような彼らのさばき方について、神の豊かな慈愛と忍耐と寛容を軽んじているとも表現している(2:4)。もちろん、神はこのようなさばきをするようにと彼らに求めておられるはずはない。

そこで、神は何よりもこれらのような不公平なさばき行う彼らをご自分の正しいさばきとをもってさばかれるのである。彼らは、ただ間違ったさばきを行っている者たちではなく、パウロが1章で、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、わきまえのない者、情け知らずの者、慈愛のない者などと呼んでいる張本人なのである(1:28-32)。そのような彼らに注がれる神の正しいさばきとは、彼ら自身が行った行いに従って報いられるというものであり(2:6)、いわば目には目、歯には歯のさばきである。このさばきはまさに彼ら悪人どもが行っていたさばきとは正反対のものであるということが言える。パウロは、神の正しいさばきについてさらに詳しく説明するため、2:7-10の段落においてはっきりと並行した形で教えている。すなわち、忍耐とを持って善を行い、神の栄光を求める者には永遠のいのちが与えられるが、真理に従わないものには怒りと憤り、さらには患難と苦悩とが与えられるのである。善を行い、神の栄光と誉れとを求める者には、祝福として、その求めた人自身にも栄光、誉れ、そして平和とが与えられるのであって、求める者には与えてくださる神様である。これこそが、パウロがはっきりと宣言したえこひいきのない神のさばきである(2:11)。これほどまでに神のさばきについて知らされていながら、なお従おうとせず、真理に逆らい続ける者は、日々神の御怒りを自分のために積み上げているのであって、彼らには弁解の余地はないのである。

そのようなわけで、パウロの命令の通り、私たちはもはや互いにさばき合うことをせず(14:13)、かえって神の慈愛を注がれた者として、神の正しいさばきが現される日を待ち望むことが求められているのである。なぜなら、神のさばきは底知れず深いものであり、これらはまだほんの一部にすぎず、私たちにはそれを知り尽くすことはできないからである(11:33)。

-- Shinya Daniel@KannoFamily mailto:+shinya@kanno.com :)