Subject:
ローマ:「死の奴隷、義の奴隷」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/09/17 0:18
To:
saiwainet

パウロの述べ伝えた救いについて

パウロはローマ人への手紙の特に始まりと終わりにおいて、信仰による救いについて書いた。なぜなら、この手紙は福音についての書物であり、パウロが書いている通り、福音とは救いの良い知らせの事だからである。その中でもパウロが強調したのは、新約時代における「救い」とは何かである。キリストによる完全な贖いが成就したことにより、たとえ、イスラエル人であっても、異邦人であっても救いに入ることができるという祝福が与えられたのだ。それゆえ、誰でもキリストを信じる者を神は救ってくださるのである。では、私たちがローマ人から学ぶべき「救い」とは何か?パウロは具体的に救いについて説明したのだろうか?

罪の奴隷からの救い

この救いについてパウロは説明するときに、いろいろな言い方を用いた。その中の一つは「奴隷」である。彼は、救われていない状態を「罪の奴隷」と表現している。なぜなら、私たちも救われる以前は、罪の支配の下にあり、罪と死に捕らわれていたのである。それゆえ、私たちは「奴隷」として罪に服従していたのであって、不法に従って生きていたのである。この状態から解放される唯一の方法は「死ぬこと」しかなかったのだが、キリストが私たちの代わりに死んでよみがえってくださったために、その解放が実現したのである。

罪の支配からの解放

キリストの死と復活による、罪の支配からの解放とは、キリストを信じるすべての人にも適用される者であるから、私たちも「キリストと共に死んだ者」と見なされ、もはや罪の奴隷ではなく義の奴隷となったのである。罪から解放された神の奴隷とは、「奴隷」という言葉があえて使われているが、真の自由を持つ者のことであるということを覚えなければいけない。真の自由とは、従順に神に従い、伝えられた教えを守り、正しさを行うことである。つまり、この自由とは、罪の奴隷であった頃のような「自由奔放」な行いを指すのではなく、正しい支配の下に置かれている「服従」の状態を表すものなのである。また、「義の奴隷」ということは、私たちが「キリストのものである」という意味であり、神の支配の下にあるということを表しているのである。

死のからだに捕らわれている者たち

このようにして、救われて義の奴隷とされ、もはや、罪と死の支配ではなく、恵みの下に置かれた私たちであるが、この世においてはまだ「古い肉の体」を持つ者として、罪の問題を抱えており、善をしたいと願っていても悪を行ってしまうというようなことが起こってしまう。なぜなら、今私たちがもっている体とは「死のからだ」であり、私たちはまだ肉においては「律法の下」に置かれているのだからである。ただし、救われていない者たちと「義の奴隷」である者たちの状態は根本的に違うのであって、この世における一時的な罪と死の束縛は私たちを永遠の命から引き離すものでは決してないのである。

罪と死の支配の原点について

では、元は神様が完全なものとして創造された世界に、どのようにして罪と死の支配がはいってしまったのだろうか。この支配の始まりは、アダムが罪を犯したところにある。たった一人の人が罪を犯したことにより、全世界に罪の支配が入ってしまったのである。その罪により、人間に死という呪いが与えられた。これが、人間の罪に対するさばきだったのである。しかし、恵み深い神様は、罪を犯してしまったアダムとエバに、罪の支配からの救いも約束してくださった。その救いとは、ひとりの罪によって世界に罪と死が入ってしまったように、反対に、ひとりの人の贖いによって命の支配が与えられるというものだった。そして、私たちは救いにより、その命の支配下にいれられ、贖いに預かるものとされたのである。

義の奴隷である神の子どもたち

パウロは救われた者たちについて「義の奴隷」という表現すると同時に「神の子ども」という言い方も用いている。これらの二つの表現は矛盾しているようにも思えるが、どちらも、神の救いに預かった「真の自由人」を意味するのであって、私たちに与えられた救いの恵みを表すものである。永遠のいのちの支配の下におかれる事こそが、真の自由であり、死の支配からの救いなのである。それゆえ、パウロや兄弟達がそうであったように、私たちもその自由を望みとし、神の子どもと呼ばれることを待ち望んで、肉の体のなかに置かれている一時的な苦しみと戦っているのである。