Subject:
ローマ:「オリーブの木とぶどうの木」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/09/23 7:15
To:
saiwainet

オリーブの木とぶどうの木

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」これは、ヨハネ15章に書かれている、キリストが御自分をぶどうの木としてたとえて話された有名な箇所の一文である。一方ローマ書ではパウロが11章16節から24節において、オリーブの木という植物のたとえを用いて、私たちの信仰について書いた。そこで、パウロが話したオリーブの木のたとえを分析することを通して、キリストの有名なぶどうの木のたとえの意味を探ってみることとする。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
- ヨハネによる福音書15:1-2

パウロはイスラエル人と異邦人の救いを説明する中で、オリーブの木の比喩を用いた。このたとえの中で、木と根は神様御自身であり、救われた私たちが枝として登場する。しかし、救われた私たちは元々生えていた枝ではなく「接ぎ木された枝」であるとされている。つまり、私たちは以前はその木の枝ではなかったということである。私たちは信仰を持つ前は「野生種のオリーブ」だったのだ。つまりは、神様の御国人にとっての異邦人だったということである。その私たちは信仰が与えられたことにより、キリストというオリーブの木に継ぎ合わされたのである。

異邦人であった私たちは「野生種」のオリーブなのだが、イスラエル人は信仰を捨ててしまった者も元々はオリーブの木の枝であった。そこで、パウロは彼らについて「栽培種」と呼んでいる。しかし、元々はオリーブの木の枝であったイスラエル人の中にも、不信仰のために折られてしまった者たちもいたのだ。私たちは彼らが折られたかわりに、信仰によって接ぎ木されたのである。

パウロは接ぎ木された私たちに対し、高ぶるのではなく、かえって恐れるようにと命じている。なぜなら、私たちが接ぎ木されたのは、「栽培種」であるイスラエル人の行いは悪いが私たちの行いが正しかったからではないからである。救われたのは神様の恵みであり、折られることなくオリーブの木に残されているイスラエル人たちも、恵みの選びによって残されたのだからである。この事からも分かるように、神様はすべてのイスラエル人を退けてしまわれたのでなく、その中の不信仰の者を折られたのである。同じように、私たちももし恵みのうちに留まらないのならば、切り落とされてしまうのである。パウロはこれを「神のいつくしみときびしさ」という表現で説明した。この「いつくしみ」については、不信仰で切り落とされた者であっても、その不信仰を続けず悔い改めるのならば、再び継ぎ合わされるとも言われている。

では、キリストはぶどうの木のたとえを通して何をおしえられたのだろうか。キリストはオリーブの木と同じように御自分をぶどうの木、そして、私たちを枝として話された。ローマ書に書かれていなかった事と言えば、御父のことである。キリストは農夫である御父についてもたとえの中で話された。キリストが言われたように、枝で実を結ばないものを切り落とすのは農夫である御父なのだ。つまり、オリーブの木に私たちを接ぎ木してくださったのもこの御父であるということが分かる。