Subject:
ローマ人への手紙「ヘブル人への手紙とのつながり」
From:
Shinya Kanno
Date:
2010/10/13 10:37
To:
saiwainet

「ローマ人への手紙とヘブル人への手紙のつながり」 菅野審也 2010.10.13

聖書の書物の並んでいる順番には、編集者の意図がある。そのため、ローマ人への手紙要する新約聖書にも構造があり、「手紙」と呼ばれるまとまりにおいて、ローマ人への手紙が一番最初の手紙として位置していることにもそれぞれ意味があると考えられる。

聖書には「手紙」という書式の書物は全部で21個あるが、そのうちの13個の手紙はローマ人への手紙も含め、「イエス・キリストの使徒パウロから」ということが書かれているものであり、差出人が一環している。しかし、残りの8個は、差出人がヤコブやペテロ、またはヨハネであったり、さらに、うちには誰が差出人であるのかがはっきりしないものもあり、差出人が一環していない。これは手紙という一つのまとまりを大きく二つに分けるあたっての非常に大きな手がかりとなっている。すなわち、この手がかりに基づき、13個のパウロの手紙がある前半と、残りの8個の後半という二つに分けるのである。

その中で、今回は特にローマ人への手紙とヘブル人への手紙の二つの手紙に注目したい。この二つの手紙はどちらとも、大きく二つに分けた時には、それぞれの段落の一番頭にくることもあり、つながっている手紙として考えるようにと言われているかのようである。また、この二つの手紙のつながりとしては他に、旧約聖書からの引用が多いこと、他の手紙に比べて長いこと等が挙げられる。また、旧約聖書からの引用が多いことに関連して、アブラハムについての話が多いのもこの二つの手紙の特徴であると言える。アブラハムという名前そのものも、ローマに10回、ヘブルに14回と、手紙で10回以上使われているのはこの二つだけである。

このように、この二つのつながり、特徴をいくつか挙げる中で、違いというものもはっきりと見ることができる。そこで、次に違いを知るために役に立つのが、枠組みである。その枠組みとは、まず第一に、エデンの園の中央にあった二本の木に基づき、ローマ人への手紙が善悪の知識の木で、ヘブル人への手紙がいのちの木であるということ。次に、聖書における主な二つの役職と言えるだろう、王と祭司の働き。特に、ローマが王で、ヘブルが祭司であるということ。さらには、この二つの役職のそれぞれの主な働きとして、王が正しくさばきを行い、正しさ(義)を守ること、祭司が礼拝について正しく行い、聖さを守るということから、ローマが義で、ヘブルが聖であるということ、これら三つを枠組みとして持つことができると考えられる。では、ヘブル人への手紙とのつながりを通してさらにローマ人への手紙について明らかにされることとは何なのだろうか。

ローマ人への手紙とヘブル人への手紙の特徴の一つでもある、引用箇所が多いということは大切なことである。「預言者を通して」(ローマ1:2,
ヘブル1:1)という言い方から始まっていることもこれに関連して、非常に興味深いものであり、この言い方は直接の旧約聖書からの引用ではないが、それを象徴する言い方にはなっている。また、アブラハムの話についても同じように、うちには直接の引用箇所も含まれたりもするが、旧約時代にあって彼に約束されたその約束に訴えているものであり、これもまた旧約を指すものとなっている。

引用箇所が多いことについて考える時には、以上で挙げられてきた枠組みに加え、もう一つ大切だと考えられる枠組みがある。それは、異邦人とユダヤ人である。この枠組みは、ガラテヤ人への手紙にある「ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。」(ガラテヤ2:8)というパウロのことばに基づくものである。このように、どちらも旧約聖書からの引用を多く用いて話されてはいるが、それぞれ話されている対象が違っているのである。特に、ローマ人への手紙が異邦人に対して、ヘブル人への手紙がユダヤ人に対してであると言えるだろう。ローマ人への手紙は特に「あらゆる国の人々に信仰の従順をもたらすためです」(ローマ1:5)という言い方もあるため、はっきりとしている。

そのようなわけで、ローマ人への手紙とヘブル人への手紙、この二つの手紙をつながりを踏まえ、ローマ人への手紙について考える時には、預言者を通して語られた神の福音について、それがどのようなものであるのかが明らかにされるのであろう。すなわち、まず第一に、この福音はユダヤ人に限らず、すべての異邦人にも宣べ伝えられたということ。また、それを聞いて信じる者こそが、異邦人も含め、アブラハムと同じように義と認められ、約束にあずかる者とされるのだということ。さらには、私たちはその福音を聞いた者として、「互いに愛し合いなさい」という命令を自らが行わなければならないということである。実は、これらの福音を知ることこそが、神の知恵であり、王の民としてのふさわしい歩み方を知ることなのである。

-- Shinya Daniel@KannoFamily mailto:+shinya@kanno.com :)