Subject:
コリント人への手紙第一「教会にある争い」
From:
Shinya Kanno
Date:
2010/10/14 22:24
To:
saiwainet

「私はパウロにつく。私はキリストにつく。」 菅野審也 2010.10.14

「『私はパウロにつく。』『私はアポロに。』『私はケパに。』『私はキリストにつく。』」この言い方は有名である(1:12)。特に、ローマ人への手紙等他の手紙に比べても、より実践的な手紙、すなわち実際にあった問題を具体的に取り扱っている手紙として多くの人の間で知られているコリント人への手紙第一の中にあっても、有名な言い方で、パウロが取り扱っている大きな問題の一つである。では、パウロは、このようなことが教会で言われていることについて、何が問題であると指摘しているのか。また、この問題に対する解決方法として彼らに何を命じているのだろうか。

パウロは、教会の中で「私はパウロにつく。」、あるいは「私はキリストにつく。」等ということが言われていることについて問題視する時、続けて、それを言うことにどのような意味があるのかを問いつめている。すなわち、彼らがめいめいそのような発言をすることによって、キリストを分割することになりかねない、もしくは自分たちのために十字架につけられたのはキリストではなく、パウロであったと言うこと、さらには、バプテスマを受けたのはパウロの名によるのだと言うことにもなりかねないのである。(1:13)。実はこの段落、10節から始まっており、「私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。」というパウロのお願いから始まっている。ここで、パウロがイエスの名によってお願いしていることとは、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保つことである(1:)。このパウロの願いからも明らかにされるように、これは争いを取り扱っている問題なのである。彼らのうちにある争いのゆえに、ある者は「パウロにつく。」と言い、またある者は「キリストにつく。」と言っているのである。これはまさに教会の一致を乱す、大問題なのである。

さらに、パウロは1章だけに留まらず、3章でもこの問題を大きく取り扱っている。この箇所にあっては、彼らのこのような争いは、もちろん御霊に属している者にはふさわしくないものであり、かえって肉に属する者かのようであるということを強く指摘している。そこで、パウロは、彼らの問題を解決するために、自分たち使徒たちがどのような者であるのか、また、それだけでなく、この問題を抱えている兄弟たちも含め、すべての兄弟たちがどのような者であるのか、根本的なところを説明し、教えている。

その教えとは次の通りである。すなわち、まず第一に、パウロやアポロ等、使徒たちは神の協力者であり、兄弟たちが信仰にはいるために用いられたしもべであるということである。パウロはこのことについて、畑の例えと建築の例えとを用いて詳しく説明しているように、彼らの働きは植える者、水を注ぐ者、または土台を据える者、家を建てる者のような役目なのである。このように、彼らの働き方はそれぞれ違うにしても、一つの働きであるということもパウロは強調している。
これらの使徒たちに役割に対して、次に、パウロは、教会の役割は神の畑であり、神の建物であるということを教えている。そこで、教会のうちには御霊が宿ってくださるのであり、教会はそれにふさわしく聖なるものとならなければならないのである。

そのようなわけで、パウロは、自分たちの働きが神にあって一つであること、同じキリストを土台として働いていることを強調し、教会にあって、使徒たちの名前を用いて分裂が起きるようなことがあってはならないと強く命じている。そこで、教会は、このような争いを教会の中からなくすために、さらには、神にある一致を保つために、神の知恵を求めなければならないのである。では、いったい彼らが求めなければならない「神の知恵」とは何なのだろうか。

-- Shinya Daniel@KannoFamily mailto:+shinya@kanno.com :)