Subject:
1コリント:「誇り」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/10/15 18:23
To:
saiwainet

「誇り」というキーワードについて

「誇り」というキーワードは1コリント人への手紙に4回、高ぶるという言葉も6回使われている。それらの箇所からを読むとき、当時のコリントの教会において、誇りや高ぶりが問題となっていたようだ。そこで、パウロはこの手紙を通して、彼らに誇ってはいけないと教え、彼らを取り扱ったのである。では、彼らの問題とは具体的に何であったのか?それに対するパウロの解決は何だったのだろうか?

救いと選びを誇ることについて

1章で取り扱われている「誇り」に関する事とは、救いと選びについてである。神様が、この世の愚かな者や弱い者、また、この世で取るに足りないと思われている者を選んでくださった事の一つの理由は、私たちが誰も自分を誇ることが無いためなのだからである。それゆえ、私たちは自分たちの知恵によって神様を信じたのでもなく、自分たちの賢さ故に救いを受けたのでもない。パウロ同様、ただ神のみこころによって召されたのである(1:1)。それゆえ、私たちに自分たち誇るなどという余地は全くない。

高ぶりの問題を取り扱わなかった者たち

コリントの教会の人々も、同じように神のみこころによって選ばれ、救いを与えられたのにも関わらず、お互いに対して誇りや高ぶりと言った問題が出てしまったのである。彼らの中には、何か自分が知識を持っているかのように思っている者がいたようだ。また、自分が誇り高ぶるだけでなく、同じような事をしているものを問題とする事も無かったのだ。それゆえ、パウロは彼らを取り扱う必要が出てしまったのである。

キリストのしもべとしての忠実な働き

それゆえ、パウロは彼らに自分が知恵のある者と思うのではなく、キリストにあって賢い者となるようにと教えている。なぜなら、自分が知恵ある者と思うことが、誇りや高慢につながるからである。そうではなくて、キリストにあるものとして、忠実に仕えるようにとさとしたのである。この「忠実な働き」とは、高慢とは全く反対のことであり、その模範として、自分を挙げている事からも分かる通り、キリストに召された者の生き方とは、誇り高ぶるものではなく、へりくだって仕えることなのである(4:17)。

コリントの教会の不品行

パウロはコリントの教会に行き、彼らに実際に会って励ましたいと考えたが、教会のある者たちの中には、パウロが来ることはないと思い上がっている人がいた、ということも書かれている。彼らは、自分たちの教会の中に、”異邦人の中にもないほど”とまで言われている不品行の問題があったのにも関わらず、誇り高ぶり、その問題を取り除こうとすることもなかったようだ。そこで、パウロは「あなたがたの高慢はよくないことです」と厳しく命じ、誇り高ぶるのではなく、教会の問題を正しく取り扱い、教会を純粋で真実なものとして保つように教えたのである(5:8)。

愛と高慢

1コリント13章は「愛」について様々な事が書かれているのだが、その中でも特に4節を見るとき「愛」が「高慢」とは全く反対のものであることが明らかになる。愛は「自慢せず、高慢になりません」と言われていることからも分かる通り、パウロがコリントの教会で誇っている者たちに教えたのは、高ぶるのではなく愛を持つように、ということだったのだ。自分の知識を誇ったり、自分の救いを誇ったりするのではなく、すべてのことを愛を持って行うこと、これが神様を信じる者のあるべき姿なのである。だから、たとえどんなに正しい事を行っても、自慢のためにおこなったりするのならば、それは悪いことであり、何の値打ちもない行いとなってしまうのである。

愛を追い求めなさい

それゆえ、パウロは14章でコリントの教会に対して「愛を追い求める」ようにと教えている。「愛を追い求める」とは具体的に、兄弟達の徳を高めることであるということが14章1-19節から明らかになる。預言をするにして、異言を語るにしても、自分のためにではなく教会の徳を高め合うために行うようにとパウロは教えたのである。これが、兄弟愛であり、高ぶりの正反対の行いなのである。