Subject: 1コリント:「神を信じる人々は神の神殿である」 |
From: Miwaza Jemimah |
Date: 2010/10/20 21:06 |
To: saiwainet |
神の神殿であるクリスチャン 聖書にはいろいろなたとえが使われている。キリストの教会も、その教会の人々も様々なっとえをもって説明されているが、1コリント3-4章において特に「建物」としてのたとえが繰り返し使われている。つまり私たち、キリストを信じる者たちは神の神殿であるという意味のたとえである。では、神の神殿である、ということは具体的にどのような事を指しているのだろうか?パウロがここでこの建物のたとえを用いた意図は何だったのか? 神の神殿を建て上げる建築家の存在 クリスチャンが「神の神殿」として例えられている箇所、または、それに似ているたとえは1コリント以外にも書かれているのだが、この箇所が他のたとえとは違う点が一つある。それは、「建築家」の存在である。パウロは神さまを信じる人々を「神の神殿」とたとえるだけでなく、それを建て上げる者についても言及したのである。 土台であるイエス・キリスト その建築家は、神の恵みによって土台の上に、神の建物である教会を建て上げたのだ。その建築家とは、パウロの事であり、彼が据えた土台とはキリスト御自身のことである。彼の据えた土台を上に教会が建てられていったのだが、それを建て上げるのはそれぞれの教会の働きであるので、パウロは正しく建物を建てるようにと兄弟達を励ました。なぜなら、キリストという土台の上に、何か他のものを建ててしまうようなことがあれば、それは、神の神殿を壊すことになるからである。 クリスチャンにふさわしい生き方 では、こういうことになる、神の神殿とはクリスチャンである私たちなのだから、パウロが言っているとおり、キリストという土台の上に正しく建物を建てるということは、自分たちが神を信じる者として正しい行いをするということ。そして、反対にクリスチャンとしてふさわしくない生き方をすることが、神の神殿を壊すことなのである。 コリントの教会における不品行 しかし、コリントの教会の中には、神の神殿を壊すような問題があったようだ。特に、不品行に関する問題や兄弟愛の問題が大きかったように見受けられる。また、彼らの間にはこれらの問題があるのにもかかわらず、それを正しくさばかず、取り扱うようなことはなく、互いを訴えたり、告訴したりといった争いが起こってしまっていたのである。これは、神の神殿を建て上げるどころか、内側から破壊することになってしまう。それゆえ、パウロは厳しい言葉を持って、コリントの教会に警告し、彼らが神の建物として堅く立つように働きかけたのである。そのような働きをしたパウロは、1コリント3章9節で自分を「神の協力者」という呼び方で呼び、あくまでも、建て上げてくださるのは神様であることも強調した。 成長させてくださる神様 これらのことを説明するために、パウロは建物のたとえに加え、植物と畑のたとえも用いた。パウロはコリントの教会を植え、アポロが水を注ぎ、それを神様が成長させてくださったと書かれている。また、パウロが書いたとおり、このことで特に強調されるべきポイントは、植物を成長させてくださる神様が一番大切だということだ。私たちは、神の神殿としてたとえられるにしても、植物として例えられるにしても、それを建て上げ、成長させてくださる神様に目を留め、神を信じるにふさわしい生き方をしなければいけないのである。