Subject:
コリント人への手紙第一「キリストこそ神の知恵」
From:
Shinya Kanno
Date:
2010/10/21 12:56
To:
saiwainet

「キリストは、私たちにとって神の知恵である」 菅野審也 2010.10.21

コリント人への手紙第一では「知恵<4678>」ということばが15回使われている。これは新約聖書の中では最も多く、他のどの手紙に比べても断然多いことがわかる。また、この知恵ということばだけはなく、そのことばに関係して「知る」や「知らされた」、または「知識<1108>」等ということばも非常に多く使われている。では、手紙の差出人であるパウロはコリント人への手紙第一を通して「神の知恵」について何を教えているのか。私たちは「神の知恵」として何を知らなければならないのだろうか。

全部で15回使われている「知恵」ということばは、コリント人への手紙第一において満遍なく出て来ているわけではない。なんと使われている箇所が偏っており、15回のうちの13回は1-2章だけで使われているのである。そこで、神の知恵について、それが何であるのかを特に1-2章を通して考えたい。

この手紙において「知恵」ということばが一番最初に使われているのは、1章17節の「キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。」という言い方においてである。ここで、パウロは、「神の知恵」と呼ばれる正しい知恵、私たちの持つべき知恵に対して、ことばの知恵や、この世の知恵等、人に対して何の益にもならない、かえってその知恵によって他人に害を加えるような知恵との対比をしている。パウロはコリントの教会においてこの世の知恵を重んじる人たちに対して、イザヤ書から引用し(1:19)、「知者はどこにいるのか。学者はどこにいるのか。」と訴えかけており、神がこの世の知恵を愚かなものとされたということを教えている(1:20)。

ここで、パウロが神の知恵について教える時に、キリストの十字架についても教えている。なぜ、パウロはこの二つのことをいっしょに教えているのだろうか。これらのテーマにはどのような関係があるのだろうか。この問いに対する質問に答えるべく、パウロは
18節でまず簡潔に教えている。すなわち、「十字架のことばは、滅びに至る人々にとっては愚かであっても、救いを受ける私たちにとっては、神の力である」ということである。このことばの通り、この世の知恵を重んじる人々にとっては、キリストの十字架は恥であり、愚かなものである。この手紙を送られたコリントの教会の中にもそのような考え方を持ってしまう傾向があった。しかし、神はそのようにこの世の知恵に目を留める者たちをはずかしめるかのように、かえって、この世の愚かな者、この世の弱い者、さらにはこの世の取るに足りない者や見下されている者たちを選び(1:27-28)、彼らをキリストにある知識において豊かな者としてくださったのである(1:5)。ここに、神の知恵の奥義が隠されている。十字架のように、この世では愚かなものとされているものを通してこそ、神はご自分の栄光を現し、使徒たちを用いて、ことばの知恵によってではなく、御霊と御力によってこの十字架について全世界に宣べ伝えられたのである(2:4)。

このようなわけで、キリストが十字架にかかってくださったことは、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、すべての信じる人たちにとっては、神の力、また神の知恵であり、さらには、私たちが主にあって誇りとするところなのである。すなわち、キリストご自身が私たちにとって神の知恵であり、また義と聖め、贖いなのである(1:30)。そこで、御霊によってキリストの心をこの身に受けた私たちは(1:16)、さらにキリストを知ることが求められているのである。

-- Shinya Daniel@KannoFamily mailto:+shinya@kanno.com :)