Subject:
1コリント:「御霊の杯と悪霊の杯」
From:
Miwaza Jemimah
Date:
2010/11/10 23:56
To:
saiwainet

パウロは1コリント10章において、モーセの時代の兄弟達について、彼らが私たちと同じ御霊の食べ物と、御霊の飲み物を飲んだ、ということを書いた。なぜなら、古い時代の者たちも、私たちにとって兄弟であり、彼らもモーセにつくバプテスマによって救われた者たちだからである。しかし、にもかかわらず、彼らは神様に逆らったために、みこころにかなわず荒野で滅ぼされてしまった。彼らは、御霊の食べ物、飲み物が与えられたのにもかかわらず、飲み食いという祝福を偶像礼拝に用いてしまったのである。それゆえ、パウロはコリントの教会に、荒野のイスラエルの民らと同じように、食べ物に関するむさぼりで反逆しないようにということ、また、彼らのように姦淫を犯さないようにと教えたのである。

なぜなら、パウロが明言したとおり、これらの荒野のイスラエルの出来事が起こったのは、今の私たちが彼らと同じように罪を犯して、滅ぼされることのないためであり、私たちがむさぼりや姦淫の罪に陥ってさばかれることがないためだからである。これらの出来事はすべて私たちの戒めのために与えられたのである。

1コリント10章で特に、イスラエルの民の問題として扱われているのは「偶像崇拝(飲食にかんするむさぼり)」と「姦淫」である。これらの問題はコリントの教会でも起こっていた。それは、パウロが偶像にささげた肉を食べることや、不品行について、前の章において取り扱っていたことからも明白である。8章においても、偶像にささげた肉についての教えは非常に細かくされているのだが、10章ではもう一度「何を食べるべきなのか」という観点から、同じ事について書き送ったのである。

では、偶像崇拝者のように飲み食いするのではなく、私たちは何をどのように食べるようにと1コリント10章とその前後において命じられているのだろうか?その答えの手がかりの一つは、3-6節に書かれている「御霊の食べ物」と「御霊の飲み物」なのではないかと思われる。偶像にささげた物は10章において、「御霊の食べ物」と対比的なものであるということは
10章20節の「彼ら(偶像崇拝者)のささげる物は悪霊にささげられている」という言い方からも明白である。そこでパウロが言った通り、これは偶像にささげた物に特別な意味や力があるということではない、だから、それらのものを食べることは禁じられていないのだが、すべてを感謝するため食べるようにと命じられている。つまり、もし、偶像にささげたものを食べることによって、兄弟につまづきを与えるのならばしてはいけないということである。

神様を信じる私たちが教えられているのは、食べることや飲むことに限らず、何をするにしても、神様の栄光を現すためにせよということである。だから、もし、食べることが兄弟につまづきを引き起こすのならば、そのようなことがあってはいけないとパウロは書き送ったのである。むしろ、共に食べて飲むことによって兄弟達の一致が深められるようでなければいけないのだ。それは、礼拝の中心が「聖餐式」という「飲食」を含む儀式にあることからも明白である。そこで、パウロは続く11章で「主の晩餐」つまり聖餐式について書いたのである。主のからだと血を現す、主のパンと杯を頂くという儀式は、まさに、無反応な偶像に肉をささげることの正反対の行いである。

パウロはこれらのことを通して、食べ物が弱い兄弟達をつまずかせたり、教会に分裂をもたらしたりすることのないように、コリントの教会に教えたのである。