Subject:
コリント人への手紙第一「愛を追い求めなさい」
From:
Shinya Kanno
Date:
2010/11/18 11:16
To:
saiwainet

「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。」 菅野審也 2010.11.18

コリント人への手紙第一13章のパウロの「愛」についての教えは有名だろう。この教えもあるように、この手紙では「愛」についていろいろな側面から教えられていると考えられる。「愛<26>」ということば自体は、コリント人への手紙第一では11回使われており、ヨハネの手紙第一に次ぐ多さではあるが、数字だけ見る限りだと他の手紙と比べて特別に多いようには感じられない。しかし、実際に手紙全体を読んでみると、愛ということばは使われていなくても、パウロが「愛」について具体的なことを教えているということに気づくものである。そこで、私たちは、この手紙から「愛」について何を教えられなければならないのだろうか。

13章でのパウロの訴えはこうである。すなわち、「異言で話しても、預言の賜物を持っており、完全な信仰を持っていても、また自分の持っている者を貧しい人たちに分け与えたとしても、愛がなければ、すべては何の役にも立たない。」ということである(13:1-3)。そこで、パウロは続けて、「では、その愛とは何なのか」を具体的に教えている。他の手紙では私たちはどのように主を愛し、また互いに愛し合ったらよいのかを中心に教えられているのに対して、この手紙では、「愛」そのものが何なのかをまず私たちに明らかにしている。ここで、愛について具体的に列挙されていることは「愛は寛容であり、親切です。また人をねたみません。」等、全部で15個あるわけだが(13:4-8)、その中でもパウロが特に強調していると考えられるのが、一番最後にある「愛は決して絶えることがありません。」という言い方である(13:8)。なぜなら、パウロはその続きで、預言の賜物、異言や知識等はみなすたれるものであるということを明言しているからである。また、かの有名な「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」という言い方からも、このことが明らかにされているのではないかと考えられる(13:13)。

そこで、パウロは次に、 14章1節で「愛を追い求めなさい。」という一つの命令を私たちに与えている。この命令は、異言や預言が盛んであったのではないかと想像のできるコリントの教会にあって、特に「預言する」こととして具体的に命じられている。なぜなら、パウロの出だしのことばにもあった通り、もし愛がないのであれば、預言することもみなむなしいものであるからであり、正しく預言し、また異言を語ることによっては、教会の徳が高められるからである(14:12)。

実は、この手紙で愛についての教えが説かれているのは、13-14章だけではない。16章でもこの手紙のまとめとして、また「愛」について教えられている。具体的な愛の行動としては、献金をすることも挙げられており、また、「いっさいのことを愛をもって行ないなさい。」という命令もある(16:14)。さらには、最後のあいさつにも非常に大切なことが隠されている。他の手紙であれば、多くの場合にはあいさつでは、「神の平安があなたがたとともにあるように。」また「主イエスの恵みがあなたがたとともにありますように。」という言い方だけが用いられるわけだが、このコリント人への手紙第一にあっては、それらのあいさに加え、「私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります。」という言い方もあり、手紙の一番最後の言い方においても、「愛」が強調されているのである。

このようなわけで、異言と預言についての教えからもわかるように、強い兄弟は自分の知識を誇らず、かえって与えられた御霊の賜物によって弱い兄弟を助け、互いの徳を高めるということが、この手紙で教えられている「愛」なのではないだろうかと考えられる。また、パウロ自身の手によって書かれた、「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。」というあいさつがこれら全体の教えをまとめる言い方になっているのではないだろうか(16:22)。

-- Shinya Daniel@KannoFamily mailto:+shinya@kanno.com :)